2月20日に金沢21世紀美術館でシンポジウム「ヒストリー・オブ・ジャパン・アーキテクツ」を拝聴。21世紀美術館で開催中の「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」を建築史の視点から読み解いてみよう、という試みで、青井哲人、中谷礼二、長谷川堯の三氏を招聘。モデレーターは日埜直彦氏。5時間にも及ぶ長丁場だったけど、長さを微塵も感じさせない、とても濃密なイベントだった。前半で青井、中谷、長谷川各氏から所信表明のプレゼンテーションがあり、後半でそれをもとに議論を行うという構成。
青井氏は建築の趨勢の背後に潜む力学を読み取ろうとし、中谷氏はその力学を掴むために構造化しようとした瞬間に否応無く発生する「こぼれ落ちるもの」に目を向けよ、と説き、長谷川氏はそうは言っても建築は人間が作り、人間が使うのだから、と昨今の建築からヒューマニティが欠落していることを指摘する。(ここで言うヒューマニティとは、設計者の自我等も含むので要注意。あらゆる立場で主体性が欠落しているという問題提起か。)
よく言えば多角的で網羅的だが、言いようによっては核心の掴みづらい三者三様のプレゼンテーションで、これをまとめた日埜氏にはただただ平伏するのみであるが、個人的には議論の中で青井氏より語られた「リアリスティックなフォルマリズム」という言葉に重みを感じた。長谷川氏が指摘するように建築からヒューマニティが遠ざかり、その根拠がどんどん外部化していく中で、社会に応える、つまりリアリティを担保することが重要なのは否定できないが、それを「形態の発露」としてフォルムにつなげていくところまできちんとやらなければならない(そうしないと歴史化しない)という指摘。フォルマリズムというとただ単に形を追求するような態度を想像してしまいがちだけど、そうではなくてリアルから紡ぎ出されるかたちのありようこそが重要ということ。今は建築に対する要求や背後の力学が多様化、複雑化しているので、そこに応えるだけで十分に大変で、つい「応えること」に満足してしまいがちだけど、そこで止まらずにフォルマリスティックにやりなさい、という檄が飛ばされたということで、設計者としては真摯に受け止めなければならない。
美術手帖や日経アーキテクチュアで「建てない」とか「作らない」という特集が組まれ、この手の言説がもてはやされているが、一般読者はさておきプロパーがその流れに身を任せるのは無責任というものだ。とはいえまあ、「建てる」ことに対して社会的なアレルギーがあることも察している。そしてその原因の一端はかつての建築家たちが経済の高揚に乗じてやりたい放題やってきたことにある、つまりプロパー側の問題であることも承知している。しかし今はそんなやりたい放題は唾棄される時代なわけで、だからこそ僕たちは先輩方の業績を称えつつ、同時にその贖罪にも腐心しながら「建て」なければならないところに立たされている。加えて、ともすれば建築は経済の周期を超えて残り続けるわけで、「いま」の状況にだけ応えていくような方法は早々に失効することも明らかだ。このような中でどのようなリアリティを根拠にどんなかたちを作るのか。これはとても大変だけど、歴史から学べることは多い。今回のシンポジウムは、歴史に向き合う際、どのようなアプローチがあり得るかという思考のきっかけが、四人の登壇者によって示された場だったのではないかと思う。
ところで、シンポジウムの質疑応答の中で浅田彰氏から「JAPAN ARCHITECTS」と同時開催の「3.11以後の建築(僕も出展してます)」に対して「建築は『ヒューマニティを取り戻したい症候群』にかかっている。人に寄り添います、というような、あんなものが建築なら建築は終わっている」「建築はモンスターになるしかないんだ」というような発言があったのが印象的だった。(ここで浅田氏が言っている「ヒューマニティ」は長谷川氏の意図したものの一部のみを指している。)安易でナイーブな「いい話」への志向がよろしくないことは承知の上で、しかし、僕たちは、かつて時代を食破ろうとして疎外されてしまった「モンスター」たちの後始末を引き受けながら建築と向き合っている。その状況に目を向けず、(そりゃまあ「3.11以後の建築」は玉石混淆なのも事実だろうけど)十把一絡げに「終わっている」では乱暴すぎる。そもそも、あそこに展示されているのは(狭義の)ヒューマニティを欲しがっているだけにしか見えなかったのだろうか。むしろ青井氏が指摘したように「その背後」に潜む力学に目を向け、中谷氏が言うように「こぼれ落ちるもの」を掬い上げ、長谷川氏が思い起こさせた多様な「ヒューマニティ」の在り方に目を向け、そのなかからどんな「かたち」が紡ぎ出されるのかに取組む時代だということが議論されたのではなかったのか。単なる「いい話」だと切り捨てることは簡単だけど、その中から何を見いだせるかを考える方がよっぽど生産的で、可能性に満ちているはずだし、僕はそういうつもりでやっている。
青井氏は建築の趨勢の背後に潜む力学を読み取ろうとし、中谷氏はその力学を掴むために構造化しようとした瞬間に否応無く発生する「こぼれ落ちるもの」に目を向けよ、と説き、長谷川氏はそうは言っても建築は人間が作り、人間が使うのだから、と昨今の建築からヒューマニティが欠落していることを指摘する。(ここで言うヒューマニティとは、設計者の自我等も含むので要注意。あらゆる立場で主体性が欠落しているという問題提起か。)
よく言えば多角的で網羅的だが、言いようによっては核心の掴みづらい三者三様のプレゼンテーションで、これをまとめた日埜氏にはただただ平伏するのみであるが、個人的には議論の中で青井氏より語られた「リアリスティックなフォルマリズム」という言葉に重みを感じた。長谷川氏が指摘するように建築からヒューマニティが遠ざかり、その根拠がどんどん外部化していく中で、社会に応える、つまりリアリティを担保することが重要なのは否定できないが、それを「形態の発露」としてフォルムにつなげていくところまできちんとやらなければならない(そうしないと歴史化しない)という指摘。フォルマリズムというとただ単に形を追求するような態度を想像してしまいがちだけど、そうではなくてリアルから紡ぎ出されるかたちのありようこそが重要ということ。今は建築に対する要求や背後の力学が多様化、複雑化しているので、そこに応えるだけで十分に大変で、つい「応えること」に満足してしまいがちだけど、そこで止まらずにフォルマリスティックにやりなさい、という檄が飛ばされたということで、設計者としては真摯に受け止めなければならない。
美術手帖や日経アーキテクチュアで「建てない」とか「作らない」という特集が組まれ、この手の言説がもてはやされているが、一般読者はさておきプロパーがその流れに身を任せるのは無責任というものだ。とはいえまあ、「建てる」ことに対して社会的なアレルギーがあることも察している。そしてその原因の一端はかつての建築家たちが経済の高揚に乗じてやりたい放題やってきたことにある、つまりプロパー側の問題であることも承知している。しかし今はそんなやりたい放題は唾棄される時代なわけで、だからこそ僕たちは先輩方の業績を称えつつ、同時にその贖罪にも腐心しながら「建て」なければならないところに立たされている。加えて、ともすれば建築は経済の周期を超えて残り続けるわけで、「いま」の状況にだけ応えていくような方法は早々に失効することも明らかだ。このような中でどのようなリアリティを根拠にどんなかたちを作るのか。これはとても大変だけど、歴史から学べることは多い。今回のシンポジウムは、歴史に向き合う際、どのようなアプローチがあり得るかという思考のきっかけが、四人の登壇者によって示された場だったのではないかと思う。
ところで、シンポジウムの質疑応答の中で浅田彰氏から「JAPAN ARCHITECTS」と同時開催の「3.11以後の建築(僕も出展してます)」に対して「建築は『ヒューマニティを取り戻したい症候群』にかかっている。人に寄り添います、というような、あんなものが建築なら建築は終わっている」「建築はモンスターになるしかないんだ」というような発言があったのが印象的だった。(ここで浅田氏が言っている「ヒューマニティ」は長谷川氏の意図したものの一部のみを指している。)安易でナイーブな「いい話」への志向がよろしくないことは承知の上で、しかし、僕たちは、かつて時代を食破ろうとして疎外されてしまった「モンスター」たちの後始末を引き受けながら建築と向き合っている。その状況に目を向けず、(そりゃまあ「3.11以後の建築」は玉石混淆なのも事実だろうけど)十把一絡げに「終わっている」では乱暴すぎる。そもそも、あそこに展示されているのは(狭義の)ヒューマニティを欲しがっているだけにしか見えなかったのだろうか。むしろ青井氏が指摘したように「その背後」に潜む力学に目を向け、中谷氏が言うように「こぼれ落ちるもの」を掬い上げ、長谷川氏が思い起こさせた多様な「ヒューマニティ」の在り方に目を向け、そのなかからどんな「かたち」が紡ぎ出されるのかに取組む時代だということが議論されたのではなかったのか。単なる「いい話」だと切り捨てることは簡単だけど、その中から何を見いだせるかを考える方がよっぽど生産的で、可能性に満ちているはずだし、僕はそういうつもりでやっている。
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