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20161111

「藤村龍至氏の南米視察報告ナイト」についての備忘録

8日にSTUDIO4でやった藤村氏の南米視察報告ナイト、とても面白かったので振り返っておきたい。(長いです)
まずは藤村氏が現地で撮りまくってきた写真を見せてもらいながら話を聞くという、タイトル通りの報告からスタート。街の様子やアラヴェナ、スミルハン・ラディッチの仕事、事務所の様子などを拝見。
藤村氏を招聘したチリの若手建築家ディエゴ氏の墓地のリサーチなども。チリにはモダニズムと現代建築しかなく、ポストモダンがないという話など、西洋中心に築かれてきたいわゆる「建築史」が東洋や南米に輸出されたとき、それが地域様々に変奏されている様子が垣間見えて面白い。
続いて、ペルーのPreviの話へ。日本からは黒川紀章や菊竹清訓、槇文彦が参画した実験都市プロジェクト。50年の歳月を経て、大幅に増改築を施された様子を見せてもらう。情報としてはwebなどで既知なのだけど、実際に訪れた実感とともに話を聞けるというのは貴重な機会。
そこで藤村氏が案内人に「この増改築はイリーガルなの?」と質問したら「イリーガルというよりインフォーマルと言いたい」と回答があったという。ここにビビッときたので、後半のディスカッションで、ちょっと突っ込んで聞いてみた。「イリーガルよりインフォーマル」という発言からは、「インフォーマル」という概念がポジティブに捉えられていることが伺える。これは僕自身の感覚とも近いものがあって、インフォーマルという言葉にはえもいわれぬ魅力を感じてしまうのだけど、さて一体、インフォーマルとは何なんだろう。かつての九龍城やコールハースのラゴスリサーチ、最近ではイワンバーン+ETHのデビットタワーなど、インフォーマルな中に見出される人間のたくましさは、多くの建築関係者を未了し続けてきたように思う。そこでの人間の営みは(様々な問題を抱えつつも)とても生き生きとして見え、いわゆる「設計」では作り出せないようなダイナミズムを見せつけてきた。ではこの「インフォーマル」と「設計」の間にどのような関係を見出せるか、というのは、最近の建築において大きな議題になっているように感じる。今年のビエンナーレで金獅子賞をとったスペイン館の展示は「unfinished」がテーマだったのだけど、そこでは経済がスタックして建設途中で投げ出されたビルに棲みつく人々の様子が大きく展示されていて、まさにラゴスやデビットタワーの様子を彷彿とさせるものだった。ビエンナーレディレクターのアラヴェナは「半分だけ作る」ソーシャルハウジングでプリツカー賞を射止めた建築家だし、ヨーロッパ各国の展示は、膨大な移民に喘ぎ、「フォーマル」では対処しきれない問題を前に呆然と立ち尽くすしかない困難の表明が相次いでいた。立場は様々だけど、正しくフォーマルに計画され、建設され、finishしたはずの建築がインフォーマルに蹂躙され、増改築され、unfinishedであっても生き生きと使い倒されている様子との距離感の取り方があちらこちらで模索されているような感じ。僕が通っている神山町も、過疎化、高齢化、消滅可能性などという言葉で形容されてしまうような、言ってみればフォーマルな国土計画からこぼれ落ちてしまった場所だと言えなくもないけれど、あの場所での様々な出来事(それはインフォーマルと呼んでもいいだろう)は多くの注目を集めるに至っている。そんなこんなで、インフォーマルには力があるし、魅力があることを感じる機会はそこいらに転がっている。だけど、ふと、フォーマルはどこに行っちゃったんだろう、と感じることもある。こういう感覚、自治体(行政側)の制度設計などに関わり、フォーマル側に軸足を置いているように見える藤村氏はどう捉え、彼の目にインフォーマルな事象がどう映っているのかを探ってみようと思ったのだけど、来場者の皆さんも様々思うところがあるようで、この辺りから様々な意見が飛び交う展開に。皆答えを探している途中、という感じで、モヤモヤしつつも次々とヒントが出る。門脇さんの「建築はフォーマルにしか振る舞えない(意訳)」、羽鳥さんの「インフォーマルには下ブレだけでなく、上ブレもあり、日建はそれをやっている(これも意訳)」という発言なども、確かに言われてみれば、である。藤村氏自身もその回答については模索中、という感じだったけど、彼が「ロマンティックなインフォーマルには興味ないけど、リアリスティックなインフォーマルには興味ある(またまた意訳)」と言っていたのは面白かった。確かにフォーマルもインフォーマルも様々なロマンにまみれていて、かなりカモフラージュされているのかもしれない。それを解きほぐし、止むに止まれぬリアルな背景と照らし合わせる、という作業がフォーマルともインフォーマルともつかない、時代に即したものの作られ方を見せてくれるのかもしれない。そんなことを考えさせられる会でありました。まだまだ考えは尽きないが、藤村氏の報告を共有できたことで、とてもたくさんの手がかりに触れることができたように思う。この先の長い議論のきっかけを作ってくれた藤村氏に感謝したいと思います。ありがとうございました。

20150224

シンポジウム「ヒストリー・オブ・ジャパン・アーキテクツ」

2月20日に金沢21世紀美術館でシンポジウム「ヒストリー・オブ・ジャパン・アーキテクツ」を拝聴。21世紀美術館で開催中の「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」を建築史の視点から読み解いてみよう、という試みで、青井哲人、中谷礼二、長谷川堯の三氏を招聘。モデレーターは日埜直彦氏。5時間にも及ぶ長丁場だったけど、長さを微塵も感じさせない、とても濃密なイベントだった。前半で青井、中谷、長谷川各氏から所信表明のプレゼンテーションがあり、後半でそれをもとに議論を行うという構成。
青井氏は建築の趨勢の背後に潜む力学を読み取ろうとし、中谷氏はその力学を掴むために構造化しようとした瞬間に否応無く発生する「こぼれ落ちるもの」に目を向けよ、と説き、長谷川氏はそうは言っても建築は人間が作り、人間が使うのだから、と昨今の建築からヒューマニティが欠落していることを指摘する。(ここで言うヒューマニティとは、設計者の自我等も含むので要注意。あらゆる立場で主体性が欠落しているという問題提起か。)
よく言えば多角的で網羅的だが、言いようによっては核心の掴みづらい三者三様のプレゼンテーションで、これをまとめた日埜氏にはただただ平伏するのみであるが、個人的には議論の中で青井氏より語られた「リアリスティックなフォルマリズム」という言葉に重みを感じた。長谷川氏が指摘するように建築からヒューマニティが遠ざかり、その根拠がどんどん外部化していく中で、社会に応える、つまりリアリティを担保することが重要なのは否定できないが、それを「形態の発露」としてフォルムにつなげていくところまできちんとやらなければならない(そうしないと歴史化しない)という指摘。フォルマリズムというとただ単に形を追求するような態度を想像してしまいがちだけど、そうではなくてリアルから紡ぎ出されるかたちのありようこそが重要ということ。今は建築に対する要求や背後の力学が多様化、複雑化しているので、そこに応えるだけで十分に大変で、つい「応えること」に満足してしまいがちだけど、そこで止まらずにフォルマリスティックにやりなさい、という檄が飛ばされたということで、設計者としては真摯に受け止めなければならない。
美術手帖や日経アーキテクチュアで「建てない」とか「作らない」という特集が組まれ、この手の言説がもてはやされているが、一般読者はさておきプロパーがその流れに身を任せるのは無責任というものだ。とはいえまあ、「建てる」ことに対して社会的なアレルギーがあることも察している。そしてその原因の一端はかつての建築家たちが経済の高揚に乗じてやりたい放題やってきたことにある、つまりプロパー側の問題であることも承知している。しかし今はそんなやりたい放題は唾棄される時代なわけで、だからこそ僕たちは先輩方の業績を称えつつ、同時にその贖罪にも腐心しながら「建て」なければならないところに立たされている。加えて、ともすれば建築は経済の周期を超えて残り続けるわけで、「いま」の状況にだけ応えていくような方法は早々に失効することも明らかだ。このような中でどのようなリアリティを根拠にどんなかたちを作るのか。これはとても大変だけど、歴史から学べることは多い。今回のシンポジウムは、歴史に向き合う際、どのようなアプローチがあり得るかという思考のきっかけが、四人の登壇者によって示された場だったのではないかと思う。

ところで、シンポジウムの質疑応答の中で浅田彰氏から「JAPAN ARCHITECTS」と同時開催の「3.11以後の建築(僕も出展してます)」に対して「建築は『ヒューマニティを取り戻したい症候群』にかかっている。人に寄り添います、というような、あんなものが建築なら建築は終わっている」「建築はモンスターになるしかないんだ」というような発言があったのが印象的だった。(ここで浅田氏が言っている「ヒューマニティ」は長谷川氏の意図したものの一部のみを指している。)安易でナイーブな「いい話」への志向がよろしくないことは承知の上で、しかし、僕たちは、かつて時代を食破ろうとして疎外されてしまった「モンスター」たちの後始末を引き受けながら建築と向き合っている。その状況に目を向けず、(そりゃまあ「3.11以後の建築」は玉石混淆なのも事実だろうけど)十把一絡げに「終わっている」では乱暴すぎる。そもそも、あそこに展示されているのは(狭義の)ヒューマニティを欲しがっているだけにしか見えなかったのだろうか。むしろ青井氏が指摘したように「その背後」に潜む力学に目を向け、中谷氏が言うように「こぼれ落ちるもの」を掬い上げ、長谷川氏が思い起こさせた多様な「ヒューマニティ」の在り方に目を向け、そのなかからどんな「かたち」が紡ぎ出されるのかに取組む時代だということが議論されたのではなかったのか。単なる「いい話」だと切り捨てることは簡単だけど、その中から何を見いだせるかを考える方がよっぽど生産的で、可能性に満ちているはずだし、僕はそういうつもりでやっている。

20131213

「福島第一原発観光地化計画」についてのメモ

「福島第一原発観光地化計画」に収められた藤村龍至の福マスタープランを読んでいて、もやもやとした違和感とともに青木淳さんの「原っぱと遊園地」と吉村靖孝さんの「ビヘイビアとプロトコル」を思い出した。青木さんのテキストは2001年、吉村さんは2012年。

青木さんはこの論の中で、「あらかじめそこで行われることがわかっている『遊園地』ではなく、そこで行われることで中身がつくられていく『原っぱ』を標榜せよ」と説き、吉村さんは「社会はプロトコルを要請し、建築家はビヘイビアに閉じこもる」という枠組みを超えて、両者を架橋せよと説く。
まだ学生だった僕にとっても、青木さんの原っぱ論は魅力的だった。このテキストによって多くの人が「原っぱの呪い」にかかったことだろう。この呪いは、解けそうでなかなか解けない。
しかしテキストの発表から12年が経ったいま、僕たちは「原っぱ」と「遊園地」のがあったら、多くの人は遊園地に行ってしまうことを知った。

それは原っぱがダメということではない。原っぱの魅力は意外と共有されているし、衰えてもいない。ただ、この状況を前にして、遊園地を問題の外側に追いやらず、「どんな遊園地をつくるべきか」ということを考えないとマズいのではないか、という問題が浮上してきている。
藤村くんのマスタープランは、この問いへの答えだと受け止めるべきだろう。(というか、彼はずっとこれをやっている)
つまり、ここで計画されていうのは紛れもなく「遊園地」ということだ。この計画が多くの批判をうけるとすれば、その根源はこの「遊園地問題」なんじゃないかと思う。
しかし、そもそも原発は遊園地を稼働させるために作り上げられたものだ。今回の事故によって遊園地翼賛の風潮は一旦影を潜めたが、それでも遊園地自体が無くなることはない。観光地化計画が示しているのは、この事故が風化し、忘れ去られ、遊園地一辺倒の世界が訪れることへの警鐘ではないか。
原っぱの魅力を知っている僕たちがすべきことは、二項対立に陥って遊園地を否定することではないはずだ。(もし何か戦うべき相手がいるとすれば、それは「原っぱを駆逐しようとする力」なんだろう。)吉村さんが「ビヘイビアとプロトコル」で言っているのもそういうことだと理解している。つまり、「遊園地」に対する解像度を一段上げて、新しい遊園地や、その中での遊び方を考えてみよう、というメッセージだ。

「観光地化計画」にあるマスタープランの、あまりにあけすけな遊園地っぷりには正直違和感を禁じ得ないが、しかしそれでも藤村氏の問いかけは受け止めなければいけないと思う。 遊園地について思考することと、原っぱの魅力を謳うことは矛盾しないはずだ。原っぱ論が根源的に教えてくれたのは、「決定ルールにとらわれるのではなく、その前提に目を向けよ」という肯定の哲学だったのだから。

20130227

「プリンティングディレクションとグラフィックデザインの対話」について


2月15日、STUDIO4に山田写真製版所のプリンティングディレクター、熊倉桂三さんをお招きした「プリンティングディレクションとグラフィックデザインの対話」、時間が全く足りないくらいの内容でしばらく興奮していたが、ちょっと落ち着いてきたので振り返っておきたい。



まずは熊倉さんによる「印刷の基礎知識」的なレクチャーからスタート。「水と空気以外なら何でも刷れる」という宣言から始まり、「印刷の五大要素」など、印刷がどういう仕組みの上に成り立っている技術なのかということをわかりやすく解説して頂く。その後、熊倉さんにお持ち頂いた、これまでに手掛けられた様々な印刷物(書籍、ポスター、カレンダー等)を見ながら、ホスト役の中野豪雄さんとともに、より踏み込んだ話へ。

このイベントのきっかけにもなった、グラデーションがとても美しい勝井三雄氏デザインの2013年カレンダー(10色刷)は、分色版(色毎に分けた版)を見ながら解説して頂く。デザイナーから受け取ったデータをそのまま印刷しても、思い通りの結果にはならないのだという。デザインのイメージを具現化するために、熊倉さんは分色の方法を模索し、勝井氏はダメを出し続ける。このやり取りを経て、やっと一枚のカレンダーが刷り上がるプロセスはとても濃密で、感動的ですらある。このカレンダーは山田写真製版所の宣材ということもあり、やや特殊な事例と理解すべきかもしれないが、しかしとてもエキサイティングで、関わる人々が楽しそうに取り組んでいる様子が伝わってくる。

その他、中野氏がデザンした「世界を変えるデザイン展」のポスターや永井一正氏の「LIFE」、トリパインやコモリのカレンダー、佐藤卓氏による「縄文人」のポスターや図録、さらにはストラディバリウスの超豪華な本から小泉今日子の写真集まで、様々な印刷物を開陳し、それぞれどのようなプロセスを経たかを軸にトークが展開して行く。
仕事の内容は様々だが、共通しているのは、どんな意図でデザインされたものかを汲み取りながら、いかに機械や紙、インクなどを使いこなし、成果物へと昇華させていくかという探求の姿勢である。仕事の内容に合わせて、その都度方法や手段が模索されている。こう書くと当たり前のように聞こえるが、実際印刷の現場でこの姿勢を貫くことはそう簡単ではないらしい。

そこには「標準化」という大きな壁が立ちはだかっている。
言わずもがな印刷は大量生産を前提として発展してきた技術である。大量の要求に応え、品質を担保するという必要性が「標準」という物差しを欲し始めるのはごく自然な成り行きだろう。日本に於ける印刷の世界には「ジャパンカラー」という標準規格があり、大半の印刷物はこの規格に則って製作されている。「標準規格」とは「これだけのクオリティは保証します」というもの、つまり粗悪な製品が世に出るのを防ぐためのものと言えるが、熊倉さんの話は、時にそれは「これだけのクオリティ」以上のものを作ることを阻害する危うさが潜んでいることを気づかせてくれる。「ジャパンカラーでしか刷れないのなら、印刷物はwebで良いじゃん」という熊倉さんの言葉は、クオリティ担保のための規格が印刷自体を絶滅へと追い込みかねないという転倒を示唆している。

昨今は「多様性の時代」といわれて久しい。翻って、20世紀は「標準化の時代」であった。機械が世界を席巻し、「グローバルスタンダード」などという言葉ももてはやされた。実際、経済は拡大し、成長というベクトルを皆が共有することが可能な時代だった。「大きな物語」という言葉が、そんな時代をわかりやすく表象している。このような背景の中で、「標準」というある種の共有の論理はすんなりと社会の中に定着していったのだろう。
さて、物語亡き「多様性の時代」。いま僕たちは何を共有しているのだろう。強いて言えば共有できないことを共有している、分かり合えないことを分かり合っているのかもしれない。そんな中では「標準」の価値はどんどん無効化していくのではないか。
「標準」と「機械」がセットだった時代を僕らは既に通り過ぎている。機械に合わせず、作るものに合わせて機械を使いこなす。今の時代に相応しいもののつくり方って、こういう形なのではないかと思う。熊倉さんの話を伺いながら、そんなことが頭をよぎっていた。

今回のトークで唯一失敗だったと思うのは、当日話題に上がった事例がどれも「特殊解」に見えてしまったかもしれないということだ。「コストがあれば」「時間があれば」「クライアントの理解があれば」など、何か特別な好条件下でしか成り立たないように見えてしまったかもしれない。しかし決してそんなことはなく、どんな条件下でも「標準」に捕われず、状況に合わせて方法を見つけ出していく姿勢を感じ取って頂ければ幸いである。言うなれば、僕たちは「全てが特殊解」の時代に生きているのだ。
下の写真を見てほしい。ジャパンカラーを乗り越えろ!と意気投合する二人の顔の、なんと楽しそうなことか。こういう楽しさこそ、「共有」される時代になると良いなと強く思う。

写真(二点とも):松井雄一郎

20101104

緒方範人-extraordinary machine

G/Pギャラリーで緒方範人さんの個展を見た。
彼の作品には今年の6月に3331のg3ギャラリーで偶然出会い、それ以降とても気になっている。
緒方氏の作品はいわゆる「写真」なのだけれど、ちょっと(というかだいぶ)変わった「撮影方法」で作られている。
その方法とは、カメラで撮影した画像に加え、ネット上の画像データやGoogleのストリートビュー画像を集め、さらにモデリングやレンダリングで作られた画像とコラージュして新しい世界を構築し、それをプリントするというもの。(書いていてもよくわからないので、ぜひ実物を見てほしい)
そこで描かれているのは、どこかで見たことがあるはずなのに、どこにもない世界。様々なレンダリングを経て、あるはずのものが消され、あるいは肥大化され、建物にまつわるイメージや情報が操作されている。写真の中の建物は、緒方氏によってデフォルメされ、漂白され、増幅させられていて、そんな断片的なイメージの集合からなる全体には既視感と違和感が入り混じる。
ここで描写されている世界を、緒方氏は「完全な建築」だと言う。

かつて杉本博司氏は「ARCHITECTURE」と銘打って「ピンボケした建築写真」を発表し、「建築は実現する過程で余分なものを付加されてしまうので、ピンボケした状態こそがその建築の最もピュアな姿を表している」と語っていた。この、現実世界で実際に建ち上がる建築に対して、その不純さ、不完全さを指摘するという態度は緒方氏にも通ずるところがあるといえる。
確かに、建築はある種の不純さや不完全さを内包せざるを得ない。しかし、その不純さ、不完全さが建築を作っていく上で重要な要素であるのも事実。そして、純度の高低は必ずしもその建築物の質に直接影響はしない。
ただ、建築を作る側に立つのであれば、建築は、「純度」という系があり、常にそこには上げたがる力と下げたがる力が作用しているということには注意を払うべきである。
建築に関わる僕としては、緒方氏の作品を、純度問題を考える上で参照すべき重要な座標軸のように感じている。

20101025

石上純也展

豊田市美術館にて開催中の石上純也展へ。
この展覧会、それはもうとても素晴らしく面白いものだった。あそこで展示されていたのは、間違いなく新しい技術の萌芽。石上さんの作品は、彼の情緒的なスケッチが印象的なこともあって「雨」とか「雲」とかのアナロジーを軸に語られることが多いが、彼の真骨頂は、むしろ常に新しい技術を携えてアイデアを構築しているところではないか。
例えば「雨を建てる」。構造系の学会なんかで「0.9mmの圧縮材と0.02mmの引張材による自立性の検証」とかいう論文(超テキトウに命名)の実験例として展示されてても何の違和感もなく受け入れられそうだ。もちろん、それはただの技術であって、そこにどういう想像力を添付してドライブさせていくかが問われるわけで、石上さんはそこで「雨」というイメージを導入してみせたということ。
パンフレットの中で、彼は「シェルターとしての建築ではなく、環境そのものとしての建築を考えたい」という主旨のことを書いている。
建築を「環境」に接続する想像のための手掛かりとして、「雨」とか「雲」とか「森」とかのアナロジーを用いているわけだ。
それは、いままでの建築(=人工環境)と自然環境との境界が曖昧になってきている、もっと両者が影響しあう新しい環境をつくり出したい、という彼の認識に立脚している。
ただ、僕はここに少なからぬ違和感を感じてしまう。彼の追求している技術は、むしろ人工環境を突き詰めた、バリバリに先端で、とても理性的な環境なのではないかという気がしてならないのだ。
雨とか雲とかいう類いの単語を持ち出すことで、なんとなく自然環境に近づいているような気がしてしまうのだけれど、彼の環境には「人間」や「生活」の存在感が希薄だし、実はネコすらも受け入れられなかった(ヴェネチアビエンナーレでの石上さんの展示はネコが侵入して倒壊、という噂を聞いたので)というエピソードが、その自然性が捏造されたイメージでしかないことを顕在化させているように思う。

というわけで、「雨」とか「森」などのアナロジーを採用することの有効性については疑問がのこるけれど、ともあれ強烈に新しい世界を想像させてくれる、新しい技術に出会えることは、なんとも至福な体験なのだ。石上さんの切り開いている道を、表面的な印象論だけで片付けてしまうのはあまりにももったいない。


石上純也展「建築のあたらしい大きさ」
豊田市美術館 12月26日まで

20100208

Live Round About Journal

2月6日、藤村龍至率いる「TEAM ROUNDABOUT」主催のLive Round about Journal「メタボリズム2.0」へ。これが、とても面白かったわけであります。

プレゼンテーターの講演+全体討議+ライブ編集+フリーペーパー発行というフォーマットも三年目で、今年のプレゼンテーターは以下の方々。
・連勇太郎
・酒井康史
・李明喜
・岡瑞起
・池上高志
・藤本壮介
・磯崎新
コメンテーターは東浩紀、倉方俊輔、南後由和、黒瀬陽平、橋本純という面々。
モデレータは濱野智史(遅刻)、藤村龍至。
各プレゼンテーターの内容などについては各所にアップされているのでここでは割愛、ということで、ここでは(濱野氏遅刻の次に)最も印象的だった全体討議の中での「藤村龍至吊るし上げ事件」について思ったことを書きたいと思う。
ことの発端は磯崎氏による「この場には『何が良い建築で何が悪い建築なのか、何がいい環境で何が悪い環境なのか』についての議論がない」との指摘だった。
まず、とにかく残念だったのは、藤村氏を中心とする議論に対して差し出されたであろうこの指摘に対して、藤村氏が自ら回答せず、マイクを李氏や黒瀬氏に委ねてしまったことだ。これは良くない。
磯崎氏による指摘は、非常に的を射ている。藤村氏のマニフェストが一定の合意を得ながらも常に批判的に取扱われてしまうのも、この問題に起因する。「批判的工学主義」「超線形プロセス論」といった彼の理論はあくまで方法論であって、それをどうやって結果に繋げていくのかについては答えが提示されていない。それどころか、藤村自身が「形はどうでもいい」などと発言してしまうものだから、余計に誤解を招いてしまう。
当然のことながら、良い/悪いの判断基準が形のみに依存するわけではない。それに、藤村氏だって形には注意を払っているだろうし、興味もあると思う(無いなら建築家をやめるべきだ)。
ただ、形云々についてナイーブに議論しているだけでは建築家はどんどん社会から乖離してしまう、という問題提起をしたいだけなのだ。
ここまでは良い。だが、建築家として仕事をする以上、最終的には出来上がる「もの」に責任を持たなければいけないし、何が良くて、何が悪いと思っているのか、という問題にはきちんと意思表明をすべきだろう。
だから、磯崎氏の問題提起に対して、自身の言葉で返答しなかったのには失望した。アホかと思った。
この煮え切らない態度に苛立った会場からは、「藤村はビジョンを示せ」「未来への視点を提示せよ」といった非難が噴出するという展開に。自ら回答を拒否した結果であり自業自得だが、一方でこれはちょっと酷だったように思う。
そもそも、物語亡きこの時代に大きなビジョンを描くことは不可能に近い。「今の意志」という大きなマスは存在しない。ビジョンはローカルにしか提示できないし、そのレベルで満足していてはコンテクストとの戯れでしかなく、「社会」や「都市」を語る言説にはなり得ない。
ただ、やっぱりビジョンがなければ、人を動かし、前に進んでいくことは難しい。どこに行くのかわからない列車に乗りたい人はいないだろう。だから物語(ビジョン)亡き時代にいかにものを作るかが問われているのであり、その時に大事なのがシステムであり、プロセスであり、アルゴリスム(的思考)なのだ。藤村氏は「コンテクストに沿った建物を作りたい」と言っていたが、コンテクストに依存するのではなく、いかにコンテクストから「良い建築」「良い環境」を導きだすか、こそが重要だろう。
ビジョンはローカルでも構わない。というかむしろローカルなビジョンこそが求められている。だから、ビジョンは「結果」で良いのだと思う。ただ、放棄してはいけない。
「ローカルなビジョンを構築するために必要なものは何か」という問いに対して、コンテクストから結果を導きだし、多様な要素を読込みながら計画をまとめあげていく「批判的工学主義」や「超線形プロセス論」が一つの答えの手掛かりにはなっていると思う。一義的なビジョンをかざすのではなく、多義的に計画を生成していくための議論こそが社会や都市を語っていく上で重要だと思うし、藤村氏にはその可能性について語ってほしかった。
まあ、藤村批判が噴出していた会場でも、ビジョンを描くことの困難さにはみんな承知の上だったろうとも思う。だからこそ、「汚名をかぶってでも未来を語りたい」と言い切った東浩紀氏の言葉は、とても力強く心に響いたのだった。
あの心意気溢れる発言は、藤村氏に向けてというよりもあの会場にいた建築関係者全員に向けられたものだったように思う。

20091120

志村信裕展「うかべ」


友人の志村信裕くんが横浜美術館で展覧会をやっている。
先日のアーティストトークを拝聴。いろいろとネタばらしを聞かせてもらう。これがアーティストトークの醍醐味。
彼は主に映像を使う作品を作っているのだけれど、彼のドローイングにはいつも映像だけでなく、映し出される空間や鑑賞者が描かれている。ただ映像を作るのではなく「映像が投影される空間全体を作品とする」というコンセプトなのだ。
と書くと、とてもサイトスペシフィックな作品を想像してしまうけれど、実はそうでもない。彼の作品はそれ自身で自律していて、空間に依存はしていない。映像を空間にぶつけることで、今まで何気なく通り過ぎてしまっていた空間を違ったものへと変容させる。人間は情報収集の90%以上を視覚に頼っているらしいが、その視覚も、まわりに溢れる情報のほんの一部しか相手に出来ていないということがよくわかる。もちろんその性能が上がれば良いというわけではないが、志村くんの作品は、普段なら取りこぼしていた情報の断片をそっと差し出してくれる。これは、けっこうどきどきする体験なのだ。
一緒に行ったYさんは「これは恋人と見たい」などとロマンチックな感想を述べていたが、あながち悪くないのでは。

11月23日まで。毎日16時〜18時に上映。残り僅かな会期ですが、横浜方面に行かれた際は是非。

20091019

何に因って?

森美術館のアイ・ウェイ・ウェイ展へ。
なんと写真撮影OKという画期的な試みが行われていたのだが、まさかそんなことになっているとは知らなかったのでカメラを持って行かず。残念。
アイ・ウェイ・ウェイの作品をまとめて見るのは初めてだったが、とてもわかりやすい。
しかし、全ての作品に「これはこういうコンセプトですよ」という解説のキャプション付き。
これは、ちょっとおせっかいと言わざるを得ないのでは。
アートの解釈は人それぞれ自由、というよく聞く言説があるが、これがなかなか難しいのはよくわかっている。
しかし、やっぱりアートの楽しみはそこにあると思うのだ。
僕は、アートを「理解」するのをやめようと思った時から一気にアートが楽しくなった。
作品のバックグラウンドやコンテクストを説明するのならまだわかるが、「理解の方法」を押し付けるようなキャプションはやめた方が良い。

意外な収穫として、同時開催されていた小泉明郎の映像作品がなかなか良かった。
映像作家にとって、作品を最初から最後まで鑑賞させるというのはなかなか難しいこと(途中で出て行ってしまう人が多い!)だと思うのだけど、この人は作品を最後まで鑑賞させるコツを心得ているように思う。

20081217

注文の夥しい料理店

事務所の一階にある「5TANDA SONIC」で、危口統之主宰の劇団(?)「悪魔のしるし」による公演「注文の夥しい料理店」が開催されました。
題名からわかる通り、宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」のパロディです。この童話をベースにしながら、カニバリズム的に暴走させたという問題作。
客席はS席とA席に分かれていて、S席では実際に人肉(を模した料理)を食べることが出来るという仕組み。料理は、Food Creationの諏訪さんでした。
危口氏の狂気と妄想が炸裂する、危険で魅力的な芝居。会場中に充満するおいしそうな料理の匂い(でも出されるのは人肉)…。
人食などというのは、なかなか日常的に身近にあるテーマではないので、来場者はなんだか秘密を共有するような魅惑にかられるのですが、一方で危口さんの芝居はそんな共有性を突き放すようにドライブしていきます。共有と非共有が交錯する、不思議な時間でした。

終演後、芝居関係者とおぼしきお客さんが危口さんと話しているのを聞いていたのですが、このやり取りがとても面白かった。
お客さん曰く「どういうつもりでこういう芝居をやってんですか?」
危口氏の回答「世の中にムリ、ムダ、ムラを出来るだけ増やそうと思って。」
煙に巻くような回答ですが、ここに危口氏の本質と矛盾を見たような気がします。危口氏のパフォーマンスの最大の魅力は何かというと、「状況を提示している」という一言に尽きると思っています。それは「芝居」という形式を用いているときもあるし、「講義」「搬入」「写生大会」等、様々な形に姿を変えるのですが、そこにあるのはメッセージやプロパガンダではなく、何らかの「状況」をポンと置く、ただそれだけというとてもドライな態度です。
メッセージを持たないので、そこには「機能」はありません。社会的にはなんの役にも立たない、ただの行為があるだけなのです。ゴミみたいなものです。
しかし、生きていればゴミは出る、そしてそれは確実に社会の中に存在しているということを危口さんのパフォーマンスは垣間見せてくれるのです。
ここで、危口氏はとても難しい問題に直面するはずです。芝居であれ講義であれ、「パフォーマンス」という形式を持つ以上、何か一つの形に着地させなければならない。そこに向かうというのは、クリエイションとして完成度を高めるという行為です。演じる者の最低限の責任とも言えるでしょう。
しかし、「完成度を高める」とはどういうことか。単純に考えると、それは社会的に正当性を獲得するための作業ということになります。
ムリ、ムダ、ムラという社会的に抹殺されるべきものに対して、社会的正当性を与えるというのはなんとも矛盾した、甚だ困難な作業となる。危口氏のパフォーマンスは今までいくつか見ていますが、完成度が上がれば上がるほど「危口さんっぽくない」というフラストレーションを感じていた原因が、このやりとりを聞いていてよくわかりました。

もちろん僕はこういうパフォーマンスの在り方はとても好きだし、危口氏には今後も鮮やかに活動して欲しいと思っています。
次に危口さんが見せてくれる状況とはどんなものなのか、とても楽しみ。
そしてさらに、彼がどんな「着地」の方法を発見していくのかも、とても興味のある問題になってきました。

20081020

ダイアローグは危険


いま、隈研吾の「レクチャー/ダイアローグ」を読んでいます。ダイアローグ、つまり対話であり、この本は隈氏と様々な識者との対談をまとめたものです。
対話という形式は、文章も平易でとても読みやすいのですが、どうも観念論的な内容になりがちで内容が頭に入って来ません。(言葉は悪いですが)隈氏の言説はただでさえ一歩間違えると簡単に騙されるというか、根拠無く納得させられてしまうような仕組みになっていて、いつも困惑させられるのですが、ダイアローグと言う形式で語る隈氏はさらに危険です。
摩擦がほとんど無く、いくら掴もうとしてもするりと抜け落ちてしまうような感じ。トゲトゲしているよりつるつるの方が一見やさしそうで安心しますが、これには気をつけないといけません。

20080922

磯崎新の「都庁」


「磯崎新の『都庁』」を読了。
平松剛の著作は初めてでしたが、なんてわかりやすい文章を書くのだろうと感心。
先日「建築設計お仕事ガイド」のトークショーをやった際に、「建築の言葉はなぜこんなに難しくなったのか?」という話題がでたのですが、諸悪の根源として名前が挙がったのが磯崎氏でした。彼が若くして万博などの政治的イベントに巻き込まれ、様々な力学の渦の中に建築が飲み込まれそうになっているのを目の当たりにした時、なんとかそれを食い止めるために言葉の力に頼らざるを得なくなったと。
この時代に踏ん張った磯崎氏の、時代と格闘する苦悩は様々な彼の著作からも伺い知ることができます。
そんな「難しい建築」の代名詞とも言うべき彼の仕事を、こんなに簡単に記述できてしまう平松氏はタダモノではない。
僕も、普段自分の仕事を説明する際に使っている言葉について考えさせられる一冊でした。

20080712

フリータイム

巷で話題のチェルフィッチュという劇団があります。すごい評判で、演劇の話になると名前が出ないことはない、という勢い。いろんな賞も総ナメです。
こういうのは押さえておきたいと思うのですが、なかなかタイミングが合わず、まだ公演を見たことはありません。
と、そんな矢先、家に帰ってテレビをつけたら彼らの「フリータイム」という公演をやっていました。これはラッキー。その評判たるや、いかなるものかと。どんな面白い芝居なのかと。期待に胸を膨らませて鑑賞したのですが。

ひどくつまらなかった。というか、イライラしました。

普通ならそこでテレビを消すのですが、公演放映の後、主宰の岡田利規氏と大江健三郎氏の対談があるとのことで、ムカついたあまり、「どんなこと考えてこんな芝居作るのか聞いてやろうじゃねえか」と意気込んでしまい、それも見ることに。
その対談を聞いてみると・・・。これが非常に面白かったわけです。
「演劇」という形式に対する新しい試みがあり、「役者とは」「台詞とは」「身体とは」「舞台とは」といった問題に対する鋭い批評性が感じられます。「台詞と身体を同等に扱う」という発言など、シビレてしまいます。

しかし、その対談に興奮してもなお、チェルフィッチュの公演自体が面白いとは思えないだろうな、というのが素直な感想。
つまり、コンセプトは最高に面白いけど、その結果が魅力的ではないわけです。
これは、自分にとってもとても重大な問題です。
建築家に限らず、あらゆるクリエイションに関わる人たちは、今の自分を取り巻いている状況を疑い、固定化した形式に捕われず、新しい提案を行っていくという責務があります。その過程には様々な思考があり、コンセプトがあり、その結果として戯曲が出来たり、建物が立ったりするわけです。
一方で、新しさを求めるあまり、単に突飛なものや、奇天烈なものが登場してしまうことも無いわけではない。あるいは、コンセプトは完璧だけど形が格好悪い、という事態もママあるわけで。
結果として提示するかたちが魅力的でないと、その提案は説得力を持たないのです。
「新しさに惑わされずに、それがもたらす真の価値を見定めなければならない」と強く思いました。

余談ですが、「チェルフィッチュの芝居を撮影した写真を見る」というのが、今のところ僕にとって彼らの芝居を楽しむ一番の方法であることは、書き記しておこうと思います。

20080609

高橋匡太

友人に誘われて、久しぶりに高橋匡太さんのライブパフォーマンスに行ってきました。
高橋匡太さんは、最近では十和田市現代美術館の常設ライトアップ等を手がけている、光を扱うアーティストです。
初めて観た彼のパフォーマンスは2006年にタマダアートプロジェクトで行われた「flo+out」でした。そこで目にしたのは「幻影巻取機」なる不思議な道具。回転する「ろくろ」にDVを取付けて、その上に色砂や液体を落としながら撮影し、ライブで編集して映像を作る、というものでした。原理はかなりアナログですが、微妙にタイムラグを付けたり、ディレイ気味に映像を投影するなど、PCならではの手法も盛り込まれています。
その頃は様々な映像クリエーターやVJがいて、PCを駆使したすごい作品が世の中に溢れていたのですが、その中でアナログな映像作品がとても衝撃的で、技術に踊らされていない、とても新鮮なものを見せてもらったパフォーマンスでした。
あれから2年。久々に見る高橋さんのパフォーマンスは、ますますパワーアップしていましたが、今回はLEDを用いた道具がメインで正直ちょっと残念なところもありました。
つくり出される光や映像はとても面白かったのですが、どうしても予定調和的な雰囲気が拭いきれず、やや消化不良気味。

いま、日本人のアーティストは皆「村上隆の呪い」に取り憑かれているように思います。つまり、アート作品には「コンセプト」が最も重要で、単純に「絵がうまい」とか「細かい描写ができる」とか、いわゆる人間の手技による成果は意味を持たない、という問題提起です。
この宣告があまりに強烈だったため、アーティストたちは皆「手技」に頼ることが悪であるように思いこむという呪いにかかってしまった。
これはある意味、的を射た指摘だと思います。でも門外漢としては、必ずしも人間の手技が価値を持たないわけではないと思うし、「手技」による表現自体がコンセプトとなるような作品も存在しうるとも思います。
この問題を考えると、いつも20世紀初頭に建築の世界で起った「工業か手工芸か」という問題を思い出さずにはいられません。
新たに登場した工業というものの作り方に対して、人間の手作業は意味を持つのかと言う問題です。結局工業が勝利したのは周知のとおりです。
しかし、技術はただ「使えば良い」ものではなく、いかに使うかということこそが問題のはず。
高橋さんの2006年のパフォーマンスは、その問題にとても鮮やかな答えを提示しているように感じました。
今回のパフォーマンスは、前回と比べると技術に対する鋭い批評性という点に於いて、やや物足りなさが残るものでした。
もちろん、それが重要なのかどうかも含めて、一考の余地があるのはいうまでもありませんが。

20080603

柴田鑑三展


月曜日、現場帰りにINAXギャラリーで開催されている「柴田鑑三展」のギャラリートークへ。
柴田氏はスタイロフォームを使いこなす彫刻家で、ワタリウム美術館クマグスの森展の際にはいろいろアドバイスを頂きました。
久々の再開。
スタイロは建築の断熱材として使われるもので、建築模型などでも活躍することが多いので馴染み深い材料だったのですが、まさかあんなかたちに姿を変えることが出来る物質だったとは、という作品でした。
柴田氏はトークの中で「『線』に興味がある」と言っていましたが、そこには極めて艶かしく、力強く、ふくよかな「線」がありました。言葉で「線」と言ってしまうと単なる二次元の物体ですが、そこに注目することで、厚みを見いだし、中に潜む豊かな世界を発見できるのだということを鮮やかに見せてくれるような作品です。しかもとても美しい。
6月26日まで。

20070720

貨幣論


岩井克人の「貨幣論」を読む。
経済は門外漢なので、議論の本質についてはあまりきちんと理解できていないと思いますが、ものの考え方とか、議論の展開の方法論としてはとても参考なります。
貨幣を「実態」と「形態」という深層と表層に分離してその本質を探ろうということですが、その論の是非はともかく、「共同体」という概念を持ち込んでいるのは面白い。
制度やシステムから論を導くよりも、より身体的かつ本能的な側面に注目したアプローチのように思います。
ただ、その結果として循環論法に頼ってしまうのはちょっと物足りないのですが。

というか、マルクスという人はかなり神がかっていたのではないかと。そして、経済界というのは未だにマルクスの亡霊に取り付かれているようです。マルクスを読込み、批判し、それを乗り越えようと様々な試みが行われているものの、常に基準としてのマルクスから逃れることはできない。
それは僕らが未だにコルビュジエという巨人にに捕われているのと同じようなものかもしれません。
しかし、そのような巨人がいるということは、財産です。

まあ、世の中の万事をメタレベルで支配しているのは経済、というのはなんとなく正しいような気がしているので、その片鱗に触れることができるのは単純に面白いです。

20070709

響彩陸離

日曜日、友人が出演するアートイベント「響彩陸離」@浅草アートスクエアへ。
このイベントは電子音響音楽ライブというパフォーマンスらしいのですが、こういうものを鑑賞するのは初めてなので、事前知識ゼロで会場に到着。
この友人が制作している音楽はいままでいくつか聴いたことがありましたが、今回のライブは予想を覆す内容でした。
そこにあったのは、心地い音の響きとか、美しい旋律とか、そういう表現をたのしむわけではなく、ただ単純に、そこに「音」注ぎ込まれていくのに身を任せることしかできないという状態でした。気を抜くと溺れてしまいそうな緊張感まで漂っています。
「音」とは何かを突きつけられるような体験。
パラジャーノフの映画を見ている感覚に近いかもしれません。
久々にびっくりした出来事でした。こういう体験は自分の中で咀嚼するのに時間がかかります。
電子音響音楽は、ちょっと事後的に調べてみたところ、とてもたくさんのコンテクストを背負ってそうな様子が垣間みれましたが、個人的にはあまり予備知識を入れずに純粋に音と戯れるような楽しみ方の方が合っているように思いました。

しかし会場の椅子、これが非常によろしくなかったです。
長時間の使用にはちょっと厳しい。当日は朝から予定がびっしりで疲れていたのもあるのかもしれませんが、後半は腰や肩が重くなってしまい、音に集中できませんでした。
椅子のせいではなく歳の問題でしょうか??

20070506

過程のプレゼン

先日、友人の藤村龍至くんが個展をやっているプリズミックギャラリーへ。
かねてから、建築家の個展において一般的な形式となっている「模型と図面を展示する」というやりかたにある種の閉塞感を感じていましたが、藤村くんの個展はその形式を踏襲しつつもなかなか面白いものでした。
彼の特徴は「とにかくたくさん検討する」というところにありますが、その検討の過程が展示されていて、しかも途中経過の模型写真に「どんなことを検討し、どう判断したか」というキャプションがついている。
スタディ過程を公衆の目に曝すというのは、化粧の途中の顔を見られるようなもの(僕は男性なのであくまで想像ですが)で、結構恥ずかしいことのようにも思います。
しかし、藤村くんの展示はとても戦略的で、あまり恥ずかしさを感じるようなものではありませんでした。上手い。
この展示は彼の思考過程をどんな文章よりもわかりやすく伝えてくれて、興味深かったのですが、おそらく彼はスタディしているときも、常にその過程を誰かにプレゼンテーションすることを意識しているのだろうと思います。
そういうやり方は、常に隠蔽出来る部分が無いと言うか、とても大変な作業なのではないかという気がしますが、それすら「かえって効率がよい」などとさらりと述べてしまうあたりに彼のしたたかさを感じます。
したたかさ、見習いたいです。