豊田市美術館にて開催中の石上純也展へ。
この展覧会、それはもうとても素晴らしく面白いものだった。あそこで展示されていたのは、間違いなく新しい技術の萌芽。石上さんの作品は、彼の情緒的なスケッチが印象的なこともあって「雨」とか「雲」とかのアナロジーを軸に語られることが多いが、彼の真骨頂は、むしろ常に新しい技術を携えてアイデアを構築しているところではないか。
例えば「雨を建てる」。構造系の学会なんかで「0.9mmの圧縮材と0.02mmの引張材による自立性の検証」とかいう論文(超テキトウに命名)の実験例として展示されてても何の違和感もなく受け入れられそうだ。もちろん、それはただの技術であって、そこにどういう想像力を添付してドライブさせていくかが問われるわけで、石上さんはそこで「雨」というイメージを導入してみせたということ。
パンフレットの中で、彼は「シェルターとしての建築ではなく、環境そのものとしての建築を考えたい」という主旨のことを書いている。
建築を「環境」に接続する想像のための手掛かりとして、「雨」とか「雲」とか「森」とかのアナロジーを用いているわけだ。
それは、いままでの建築(=人工環境)と自然環境との境界が曖昧になってきている、もっと両者が影響しあう新しい環境をつくり出したい、という彼の認識に立脚している。
ただ、僕はここに少なからぬ違和感を感じてしまう。彼の追求している技術は、むしろ人工環境を突き詰めた、バリバリに先端で、とても理性的な環境なのではないかという気がしてならないのだ。
雨とか雲とかいう類いの単語を持ち出すことで、なんとなく自然環境に近づいているような気がしてしまうのだけれど、彼の環境には「人間」や「生活」の存在感が希薄だし、実はネコすらも受け入れられなかった(ヴェネチアビエンナーレでの石上さんの展示はネコが侵入して倒壊、という噂を聞いたので)というエピソードが、その自然性が捏造されたイメージでしかないことを顕在化させているように思う。
というわけで、「雨」とか「森」などのアナロジーを採用することの有効性については疑問がのこるけれど、ともあれ強烈に新しい世界を想像させてくれる、新しい技術に出会えることは、なんとも至福な体験なのだ。石上さんの切り開いている道を、表面的な印象論だけで片付けてしまうのはあまりにももったいない。
石上純也展「建築のあたらしい大きさ」
豊田市美術館 12月26日まで
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