20170919
20161111
「藤村龍至氏の南米視察報告ナイト」についての備忘録
8日にSTUDIO4でやった藤村氏の南米視察報告ナイト、とても面白かったので振り返っておきたい。(長いです)
まずは藤村氏が現地で撮りまくってきた写真を見せてもらいながら話を聞くという、タイトル通りの報告からスタート。街の様子やアラヴェナ、スミルハン・ラディッチの仕事、事務所の様子などを拝見。
藤村氏を招聘したチリの若手建築家ディエゴ氏の墓地のリサーチなども。チリにはモダニズムと現代建築しかなく、ポストモダンがないという話など、西洋中心に築かれてきたいわゆる「建築史」が東洋や南米に輸出されたとき、それが地域様々に変奏されている様子が垣間見えて面白い。
続いて、ペルーのPreviの話へ。日本からは黒川紀章や菊竹清訓、槇文彦が参画した実験都市プロジェクト。50年の歳月を経て、大幅に増改築を施された様子を見せてもらう。情報としてはwebなどで既知なのだけど、実際に訪れた実感とともに話を聞けるというのは貴重な機会。
そこで藤村氏が案内人に「この増改築はイリーガルなの?」と質問したら「イリーガルというよりインフォーマルと言いたい」と回答があったという。ここにビビッときたので、後半のディスカッションで、ちょっと突っ込んで聞いてみた。「イリーガルよりインフォーマル」という発言からは、「インフォーマル」という概念がポジティブに捉えられていることが伺える。これは僕自身の感覚とも近いものがあって、インフォーマルという言葉にはえもいわれぬ魅力を感じてしまうのだけど、さて一体、インフォーマルとは何なんだろう。かつての九龍城やコールハースのラゴスリサーチ、最近ではイワンバーン+ETHのデビットタワーなど、インフォーマルな中に見出される人間のたくましさは、多くの建築関係者を未了し続けてきたように思う。そこでの人間の営みは(様々な問題を抱えつつも)とても生き生きとして見え、いわゆる「設計」では作り出せないようなダイナミズムを見せつけてきた。ではこの「インフォーマル」と「設計」の間にどのような関係を見出せるか、というのは、最近の建築において大きな議題になっているように感じる。今年のビエンナーレで金獅子賞をとったスペイン館の展示は「unfinished」がテーマだったのだけど、そこでは経済がスタックして建設途中で投げ出されたビルに棲みつく人々の様子が大きく展示されていて、まさにラゴスやデビットタワーの様子を彷彿とさせるものだった。ビエンナーレディレクターのアラヴェナは「半分だけ作る」ソーシャルハウジングでプリツカー賞を射止めた建築家だし、ヨーロッパ各国の展示は、膨大な移民に喘ぎ、「フォーマル」では対処しきれない問題を前に呆然と立ち尽くすしかない困難の表明が相次いでいた。立場は様々だけど、正しくフォーマルに計画され、建設され、finishしたはずの建築がインフォーマルに蹂躙され、増改築され、unfinishedであっても生き生きと使い倒されている様子との距離感の取り方があちらこちらで模索されているような感じ。僕が通っている神山町も、過疎化、高齢化、消滅可能性などという言葉で形容されてしまうような、言ってみればフォーマルな国土計画からこぼれ落ちてしまった場所だと言えなくもないけれど、あの場所での様々な出来事(それはインフォーマルと呼んでもいいだろう)は多くの注目を集めるに至っている。そんなこんなで、インフォーマルには力があるし、魅力があることを感じる機会はそこいらに転がっている。だけど、ふと、フォーマルはどこに行っちゃったんだろう、と感じることもある。こういう感覚、自治体(行政側)の制度設計などに関わり、フォーマル側に軸足を置いているように見える藤村氏はどう捉え、彼の目にインフォーマルな事象がどう映っているのかを探ってみようと思ったのだけど、来場者の皆さんも様々思うところがあるようで、この辺りから様々な意見が飛び交う展開に。皆答えを探している途中、という感じで、モヤモヤしつつも次々とヒントが出る。門脇さんの「建築はフォーマルにしか振る舞えない(意訳)」、羽鳥さんの「インフォーマルには下ブレだけでなく、上ブレもあり、日建はそれをやっている(これも意訳)」という発言なども、確かに言われてみれば、である。藤村氏自身もその回答については模索中、という感じだったけど、彼が「ロマンティックなインフォーマルには興味ないけど、リアリスティックなインフォーマルには興味ある(またまた意訳)」と言っていたのは面白かった。確かにフォーマルもインフォーマルも様々なロマンにまみれていて、かなりカモフラージュされているのかもしれない。それを解きほぐし、止むに止まれぬリアルな背景と照らし合わせる、という作業がフォーマルともインフォーマルともつかない、時代に即したものの作られ方を見せてくれるのかもしれない。そんなことを考えさせられる会でありました。まだまだ考えは尽きないが、藤村氏の報告を共有できたことで、とてもたくさんの手がかりに触れることができたように思う。この先の長い議論のきっかけを作ってくれた藤村氏に感謝したいと思います。ありがとうございました。
まずは藤村氏が現地で撮りまくってきた写真を見せてもらいながら話を聞くという、タイトル通りの報告からスタート。街の様子やアラヴェナ、スミルハン・ラディッチの仕事、事務所の様子などを拝見。
藤村氏を招聘したチリの若手建築家ディエゴ氏の墓地のリサーチなども。チリにはモダニズムと現代建築しかなく、ポストモダンがないという話など、西洋中心に築かれてきたいわゆる「建築史」が東洋や南米に輸出されたとき、それが地域様々に変奏されている様子が垣間見えて面白い。
続いて、ペルーのPreviの話へ。日本からは黒川紀章や菊竹清訓、槇文彦が参画した実験都市プロジェクト。50年の歳月を経て、大幅に増改築を施された様子を見せてもらう。情報としてはwebなどで既知なのだけど、実際に訪れた実感とともに話を聞けるというのは貴重な機会。
そこで藤村氏が案内人に「この増改築はイリーガルなの?」と質問したら「イリーガルというよりインフォーマルと言いたい」と回答があったという。ここにビビッときたので、後半のディスカッションで、ちょっと突っ込んで聞いてみた。「イリーガルよりインフォーマル」という発言からは、「インフォーマル」という概念がポジティブに捉えられていることが伺える。これは僕自身の感覚とも近いものがあって、インフォーマルという言葉にはえもいわれぬ魅力を感じてしまうのだけど、さて一体、インフォーマルとは何なんだろう。かつての九龍城やコールハースのラゴスリサーチ、最近ではイワンバーン+ETHのデビットタワーなど、インフォーマルな中に見出される人間のたくましさは、多くの建築関係者を未了し続けてきたように思う。そこでの人間の営みは(様々な問題を抱えつつも)とても生き生きとして見え、いわゆる「設計」では作り出せないようなダイナミズムを見せつけてきた。ではこの「インフォーマル」と「設計」の間にどのような関係を見出せるか、というのは、最近の建築において大きな議題になっているように感じる。今年のビエンナーレで金獅子賞をとったスペイン館の展示は「unfinished」がテーマだったのだけど、そこでは経済がスタックして建設途中で投げ出されたビルに棲みつく人々の様子が大きく展示されていて、まさにラゴスやデビットタワーの様子を彷彿とさせるものだった。ビエンナーレディレクターのアラヴェナは「半分だけ作る」ソーシャルハウジングでプリツカー賞を射止めた建築家だし、ヨーロッパ各国の展示は、膨大な移民に喘ぎ、「フォーマル」では対処しきれない問題を前に呆然と立ち尽くすしかない困難の表明が相次いでいた。立場は様々だけど、正しくフォーマルに計画され、建設され、finishしたはずの建築がインフォーマルに蹂躙され、増改築され、unfinishedであっても生き生きと使い倒されている様子との距離感の取り方があちらこちらで模索されているような感じ。僕が通っている神山町も、過疎化、高齢化、消滅可能性などという言葉で形容されてしまうような、言ってみればフォーマルな国土計画からこぼれ落ちてしまった場所だと言えなくもないけれど、あの場所での様々な出来事(それはインフォーマルと呼んでもいいだろう)は多くの注目を集めるに至っている。そんなこんなで、インフォーマルには力があるし、魅力があることを感じる機会はそこいらに転がっている。だけど、ふと、フォーマルはどこに行っちゃったんだろう、と感じることもある。こういう感覚、自治体(行政側)の制度設計などに関わり、フォーマル側に軸足を置いているように見える藤村氏はどう捉え、彼の目にインフォーマルな事象がどう映っているのかを探ってみようと思ったのだけど、来場者の皆さんも様々思うところがあるようで、この辺りから様々な意見が飛び交う展開に。皆答えを探している途中、という感じで、モヤモヤしつつも次々とヒントが出る。門脇さんの「建築はフォーマルにしか振る舞えない(意訳)」、羽鳥さんの「インフォーマルには下ブレだけでなく、上ブレもあり、日建はそれをやっている(これも意訳)」という発言なども、確かに言われてみれば、である。藤村氏自身もその回答については模索中、という感じだったけど、彼が「ロマンティックなインフォーマルには興味ないけど、リアリスティックなインフォーマルには興味ある(またまた意訳)」と言っていたのは面白かった。確かにフォーマルもインフォーマルも様々なロマンにまみれていて、かなりカモフラージュされているのかもしれない。それを解きほぐし、止むに止まれぬリアルな背景と照らし合わせる、という作業がフォーマルともインフォーマルともつかない、時代に即したものの作られ方を見せてくれるのかもしれない。そんなことを考えさせられる会でありました。まだまだ考えは尽きないが、藤村氏の報告を共有できたことで、とてもたくさんの手がかりに触れることができたように思う。この先の長い議論のきっかけを作ってくれた藤村氏に感謝したいと思います。ありがとうございました。
20151013
20150701
WEEK神山
週末、友人の建築家達を神山に招いて案内する機会を得ました。
彼らとは独立したばかりの頃からの付き合いで、仕事が無い頃は毎週のように集まって飲んでは、議論したりしていた仲。数少ない仕事の成果を持ち寄っては互いに文句を言いあい、励ましあい、要は、世間的にいう切磋琢磨というやつでしょうか。
成果の見学会は「検査」とも呼ばれ、同業ならではの視点でダメ出しをしあうような場になります。これが本当に面倒で、役所の検査よりも緊張するのですが、しかし客観的な視点での批評は、自分のやっていることを整理するには絶好の機会だったりもします。
幸いなことに最近は皆すごく忙しくなって、なかなか集まる機会がないのですが、それでも誰かが設計した建物が完成したときは見に行くようにしていたし、お互いが何をやっているかはそれなりにチェックもしています。
今まで、自主的にやってきてくれた数人を除いては神山を案内したことはなかったのですが、今回WEEK神山という宿泊施設が出来たので、「泊まれるじゃん」ということでついに一泊二日の出張検査を依頼。皆多忙ななか、多くの友人が集まってくれました。
今回参加してくれたのは藤村龍至、猪熊純、馬場兼伸、雨宮知彦、仲俊治、末光弘和、門脇耕三、川口有子、鄭仁愉、前田茂樹、木下まりこという面々。偶然、同日程で岡山理科大学の弥田俊男さんが学生を連れて神山に来る、ということで合流し、総勢20名以上の検査員が集うという事態に。
夜の食事会には徳島の建築家、伊月善彦さん、内野輝明さん、島津臣志さんもいらっしゃって、まさに建築ナイトの様相。此処ぞとばかりに皆に突っ込まれ、あたふたしてばかりでしたが、とても充実した夜になりました。
建築関係者ばかりの集いなので、避け難く専門的でコアな議論へと展開し、同席されたWEEKの隅田さんやスタッフの皆さんには訳のわからない話ばかりだったかもしれません。本当にすみませんでした。
よく建築家は難しい話ばかりしてダメだ、みたいなことを言われますが、まさにそれを実践してしまいました。
しかし、先日藤村さんが「簡単な言葉だけを使っていると、扱える問題も簡単なものばかりになってしまう(意訳)」というようなことを言っていたとおり、僕たちが取組まなければならない問題は一筋縄ではいかないものも多く、「簡単な言葉」がもたらしてくれる突破力を使ったり、「難しい言葉」をこねくり回して先を見通したりで、つまり「これでOK」なんていう方法はなく、あの手この手で解き方を探って行くしか無いわけです。
だから僕は専門家の「難しい言葉」を信頼しているし、必要性も感じていて、神山に集まってくれた友人達は、そういう議論のできる貴重な仲間でもあります。言葉が簡単だろうが難しかろうが、そんなことはどうでもいい。それによってどういう成果を作れるかが問われるべきで、結局僕たちは設計の専門家なので、最終的にはどういう建築を作るか、でしか責任を果たす道は無いのだと思っています。
「建てない建築家」とかいわれることもあるし、そういう傾向がもてはやされたりもする昨今、もちろん建てる以外での成果の出し方があることは承知しているし、それにも全力で取組むわけですが、しかし自分の設計した建物に皆が集い、真剣に議論している場に身を置いて、改めて「建てる」ことの責任を放棄してはいけないと意を決した夜になりました。
忙しい中時間を割いてくれた友人の皆さん、素晴らしい場所と食事を提供してくれた隅田さんやWEEKスタッフの皆さん、そしていつも楽しくやらせてくれる神山町の皆さんに感謝したいと思います。ありがとうございました。
最後に、自分で言うのも何ですがWEEK神山、とても良い宿ができたと思います。ぜひご利用下さい!
彼らとは独立したばかりの頃からの付き合いで、仕事が無い頃は毎週のように集まって飲んでは、議論したりしていた仲。数少ない仕事の成果を持ち寄っては互いに文句を言いあい、励ましあい、要は、世間的にいう切磋琢磨というやつでしょうか。
成果の見学会は「検査」とも呼ばれ、同業ならではの視点でダメ出しをしあうような場になります。これが本当に面倒で、役所の検査よりも緊張するのですが、しかし客観的な視点での批評は、自分のやっていることを整理するには絶好の機会だったりもします。
幸いなことに最近は皆すごく忙しくなって、なかなか集まる機会がないのですが、それでも誰かが設計した建物が完成したときは見に行くようにしていたし、お互いが何をやっているかはそれなりにチェックもしています。
今まで、自主的にやってきてくれた数人を除いては神山を案内したことはなかったのですが、今回WEEK神山という宿泊施設が出来たので、「泊まれるじゃん」ということでついに一泊二日の出張検査を依頼。皆多忙ななか、多くの友人が集まってくれました。
今回参加してくれたのは藤村龍至、猪熊純、馬場兼伸、雨宮知彦、仲俊治、末光弘和、門脇耕三、川口有子、鄭仁愉、前田茂樹、木下まりこという面々。偶然、同日程で岡山理科大学の弥田俊男さんが学生を連れて神山に来る、ということで合流し、総勢20名以上の検査員が集うという事態に。
夜の食事会には徳島の建築家、伊月善彦さん、内野輝明さん、島津臣志さんもいらっしゃって、まさに建築ナイトの様相。此処ぞとばかりに皆に突っ込まれ、あたふたしてばかりでしたが、とても充実した夜になりました。
建築関係者ばかりの集いなので、避け難く専門的でコアな議論へと展開し、同席されたWEEKの隅田さんやスタッフの皆さんには訳のわからない話ばかりだったかもしれません。本当にすみませんでした。
よく建築家は難しい話ばかりしてダメだ、みたいなことを言われますが、まさにそれを実践してしまいました。
しかし、先日藤村さんが「簡単な言葉だけを使っていると、扱える問題も簡単なものばかりになってしまう(意訳)」というようなことを言っていたとおり、僕たちが取組まなければならない問題は一筋縄ではいかないものも多く、「簡単な言葉」がもたらしてくれる突破力を使ったり、「難しい言葉」をこねくり回して先を見通したりで、つまり「これでOK」なんていう方法はなく、あの手この手で解き方を探って行くしか無いわけです。
だから僕は専門家の「難しい言葉」を信頼しているし、必要性も感じていて、神山に集まってくれた友人達は、そういう議論のできる貴重な仲間でもあります。言葉が簡単だろうが難しかろうが、そんなことはどうでもいい。それによってどういう成果を作れるかが問われるべきで、結局僕たちは設計の専門家なので、最終的にはどういう建築を作るか、でしか責任を果たす道は無いのだと思っています。
「建てない建築家」とかいわれることもあるし、そういう傾向がもてはやされたりもする昨今、もちろん建てる以外での成果の出し方があることは承知しているし、それにも全力で取組むわけですが、しかし自分の設計した建物に皆が集い、真剣に議論している場に身を置いて、改めて「建てる」ことの責任を放棄してはいけないと意を決した夜になりました。
忙しい中時間を割いてくれた友人の皆さん、素晴らしい場所と食事を提供してくれた隅田さんやWEEKスタッフの皆さん、そしていつも楽しくやらせてくれる神山町の皆さんに感謝したいと思います。ありがとうございました。
最後に、自分で言うのも何ですがWEEK神山、とても良い宿ができたと思います。ぜひご利用下さい!
20150224
シンポジウム「ヒストリー・オブ・ジャパン・アーキテクツ」
2月20日に金沢21世紀美術館でシンポジウム「ヒストリー・オブ・ジャパン・アーキテクツ」を拝聴。21世紀美術館で開催中の「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」を建築史の視点から読み解いてみよう、という試みで、青井哲人、中谷礼二、長谷川堯の三氏を招聘。モデレーターは日埜直彦氏。5時間にも及ぶ長丁場だったけど、長さを微塵も感じさせない、とても濃密なイベントだった。前半で青井、中谷、長谷川各氏から所信表明のプレゼンテーションがあり、後半でそれをもとに議論を行うという構成。
青井氏は建築の趨勢の背後に潜む力学を読み取ろうとし、中谷氏はその力学を掴むために構造化しようとした瞬間に否応無く発生する「こぼれ落ちるもの」に目を向けよ、と説き、長谷川氏はそうは言っても建築は人間が作り、人間が使うのだから、と昨今の建築からヒューマニティが欠落していることを指摘する。(ここで言うヒューマニティとは、設計者の自我等も含むので要注意。あらゆる立場で主体性が欠落しているという問題提起か。)
よく言えば多角的で網羅的だが、言いようによっては核心の掴みづらい三者三様のプレゼンテーションで、これをまとめた日埜氏にはただただ平伏するのみであるが、個人的には議論の中で青井氏より語られた「リアリスティックなフォルマリズム」という言葉に重みを感じた。長谷川氏が指摘するように建築からヒューマニティが遠ざかり、その根拠がどんどん外部化していく中で、社会に応える、つまりリアリティを担保することが重要なのは否定できないが、それを「形態の発露」としてフォルムにつなげていくところまできちんとやらなければならない(そうしないと歴史化しない)という指摘。フォルマリズムというとただ単に形を追求するような態度を想像してしまいがちだけど、そうではなくてリアルから紡ぎ出されるかたちのありようこそが重要ということ。今は建築に対する要求や背後の力学が多様化、複雑化しているので、そこに応えるだけで十分に大変で、つい「応えること」に満足してしまいがちだけど、そこで止まらずにフォルマリスティックにやりなさい、という檄が飛ばされたということで、設計者としては真摯に受け止めなければならない。
美術手帖や日経アーキテクチュアで「建てない」とか「作らない」という特集が組まれ、この手の言説がもてはやされているが、一般読者はさておきプロパーがその流れに身を任せるのは無責任というものだ。とはいえまあ、「建てる」ことに対して社会的なアレルギーがあることも察している。そしてその原因の一端はかつての建築家たちが経済の高揚に乗じてやりたい放題やってきたことにある、つまりプロパー側の問題であることも承知している。しかし今はそんなやりたい放題は唾棄される時代なわけで、だからこそ僕たちは先輩方の業績を称えつつ、同時にその贖罪にも腐心しながら「建て」なければならないところに立たされている。加えて、ともすれば建築は経済の周期を超えて残り続けるわけで、「いま」の状況にだけ応えていくような方法は早々に失効することも明らかだ。このような中でどのようなリアリティを根拠にどんなかたちを作るのか。これはとても大変だけど、歴史から学べることは多い。今回のシンポジウムは、歴史に向き合う際、どのようなアプローチがあり得るかという思考のきっかけが、四人の登壇者によって示された場だったのではないかと思う。
ところで、シンポジウムの質疑応答の中で浅田彰氏から「JAPAN ARCHITECTS」と同時開催の「3.11以後の建築(僕も出展してます)」に対して「建築は『ヒューマニティを取り戻したい症候群』にかかっている。人に寄り添います、というような、あんなものが建築なら建築は終わっている」「建築はモンスターになるしかないんだ」というような発言があったのが印象的だった。(ここで浅田氏が言っている「ヒューマニティ」は長谷川氏の意図したものの一部のみを指している。)安易でナイーブな「いい話」への志向がよろしくないことは承知の上で、しかし、僕たちは、かつて時代を食破ろうとして疎外されてしまった「モンスター」たちの後始末を引き受けながら建築と向き合っている。その状況に目を向けず、(そりゃまあ「3.11以後の建築」は玉石混淆なのも事実だろうけど)十把一絡げに「終わっている」では乱暴すぎる。そもそも、あそこに展示されているのは(狭義の)ヒューマニティを欲しがっているだけにしか見えなかったのだろうか。むしろ青井氏が指摘したように「その背後」に潜む力学に目を向け、中谷氏が言うように「こぼれ落ちるもの」を掬い上げ、長谷川氏が思い起こさせた多様な「ヒューマニティ」の在り方に目を向け、そのなかからどんな「かたち」が紡ぎ出されるのかに取組む時代だということが議論されたのではなかったのか。単なる「いい話」だと切り捨てることは簡単だけど、その中から何を見いだせるかを考える方がよっぽど生産的で、可能性に満ちているはずだし、僕はそういうつもりでやっている。
青井氏は建築の趨勢の背後に潜む力学を読み取ろうとし、中谷氏はその力学を掴むために構造化しようとした瞬間に否応無く発生する「こぼれ落ちるもの」に目を向けよ、と説き、長谷川氏はそうは言っても建築は人間が作り、人間が使うのだから、と昨今の建築からヒューマニティが欠落していることを指摘する。(ここで言うヒューマニティとは、設計者の自我等も含むので要注意。あらゆる立場で主体性が欠落しているという問題提起か。)
よく言えば多角的で網羅的だが、言いようによっては核心の掴みづらい三者三様のプレゼンテーションで、これをまとめた日埜氏にはただただ平伏するのみであるが、個人的には議論の中で青井氏より語られた「リアリスティックなフォルマリズム」という言葉に重みを感じた。長谷川氏が指摘するように建築からヒューマニティが遠ざかり、その根拠がどんどん外部化していく中で、社会に応える、つまりリアリティを担保することが重要なのは否定できないが、それを「形態の発露」としてフォルムにつなげていくところまできちんとやらなければならない(そうしないと歴史化しない)という指摘。フォルマリズムというとただ単に形を追求するような態度を想像してしまいがちだけど、そうではなくてリアルから紡ぎ出されるかたちのありようこそが重要ということ。今は建築に対する要求や背後の力学が多様化、複雑化しているので、そこに応えるだけで十分に大変で、つい「応えること」に満足してしまいがちだけど、そこで止まらずにフォルマリスティックにやりなさい、という檄が飛ばされたということで、設計者としては真摯に受け止めなければならない。
美術手帖や日経アーキテクチュアで「建てない」とか「作らない」という特集が組まれ、この手の言説がもてはやされているが、一般読者はさておきプロパーがその流れに身を任せるのは無責任というものだ。とはいえまあ、「建てる」ことに対して社会的なアレルギーがあることも察している。そしてその原因の一端はかつての建築家たちが経済の高揚に乗じてやりたい放題やってきたことにある、つまりプロパー側の問題であることも承知している。しかし今はそんなやりたい放題は唾棄される時代なわけで、だからこそ僕たちは先輩方の業績を称えつつ、同時にその贖罪にも腐心しながら「建て」なければならないところに立たされている。加えて、ともすれば建築は経済の周期を超えて残り続けるわけで、「いま」の状況にだけ応えていくような方法は早々に失効することも明らかだ。このような中でどのようなリアリティを根拠にどんなかたちを作るのか。これはとても大変だけど、歴史から学べることは多い。今回のシンポジウムは、歴史に向き合う際、どのようなアプローチがあり得るかという思考のきっかけが、四人の登壇者によって示された場だったのではないかと思う。
ところで、シンポジウムの質疑応答の中で浅田彰氏から「JAPAN ARCHITECTS」と同時開催の「3.11以後の建築(僕も出展してます)」に対して「建築は『ヒューマニティを取り戻したい症候群』にかかっている。人に寄り添います、というような、あんなものが建築なら建築は終わっている」「建築はモンスターになるしかないんだ」というような発言があったのが印象的だった。(ここで浅田氏が言っている「ヒューマニティ」は長谷川氏の意図したものの一部のみを指している。)安易でナイーブな「いい話」への志向がよろしくないことは承知の上で、しかし、僕たちは、かつて時代を食破ろうとして疎外されてしまった「モンスター」たちの後始末を引き受けながら建築と向き合っている。その状況に目を向けず、(そりゃまあ「3.11以後の建築」は玉石混淆なのも事実だろうけど)十把一絡げに「終わっている」では乱暴すぎる。そもそも、あそこに展示されているのは(狭義の)ヒューマニティを欲しがっているだけにしか見えなかったのだろうか。むしろ青井氏が指摘したように「その背後」に潜む力学に目を向け、中谷氏が言うように「こぼれ落ちるもの」を掬い上げ、長谷川氏が思い起こさせた多様な「ヒューマニティ」の在り方に目を向け、そのなかからどんな「かたち」が紡ぎ出されるのかに取組む時代だということが議論されたのではなかったのか。単なる「いい話」だと切り捨てることは簡単だけど、その中から何を見いだせるかを考える方がよっぽど生産的で、可能性に満ちているはずだし、僕はそういうつもりでやっている。
20130227
「プリンティングディレクションとグラフィックデザインの対話」について
2月15日、STUDIO4に山田写真製版所のプリンティングディレクター、熊倉桂三さんをお招きした「プリンティングディレクションとグラフィックデザインの対話」、時間が全く足りないくらいの内容でしばらく興奮していたが、ちょっと落ち着いてきたので振り返っておきたい。
まずは熊倉さんによる「印刷の基礎知識」的なレクチャーからスタート。「水と空気以外なら何でも刷れる」という宣言から始まり、「印刷の五大要素」など、印刷がどういう仕組みの上に成り立っている技術なのかということをわかりやすく解説して頂く。その後、熊倉さんにお持ち頂いた、これまでに手掛けられた様々な印刷物(書籍、ポスター、カレンダー等)を見ながら、ホスト役の中野豪雄さんとともに、より踏み込んだ話へ。
このイベントのきっかけにもなった、グラデーションがとても美しい勝井三雄氏デザインの2013年カレンダー(10色刷)は、分色版(色毎に分けた版)を見ながら解説して頂く。デザイナーから受け取ったデータをそのまま印刷しても、思い通りの結果にはならないのだという。デザインのイメージを具現化するために、熊倉さんは分色の方法を模索し、勝井氏はダメを出し続ける。このやり取りを経て、やっと一枚のカレンダーが刷り上がるプロセスはとても濃密で、感動的ですらある。このカレンダーは山田写真製版所の宣材ということもあり、やや特殊な事例と理解すべきかもしれないが、しかしとてもエキサイティングで、関わる人々が楽しそうに取り組んでいる様子が伝わってくる。
その他、中野氏がデザンした「世界を変えるデザイン展」のポスターや永井一正氏の「LIFE」、トリパインやコモリのカレンダー、佐藤卓氏による「縄文人」のポスターや図録、さらにはストラディバリウスの超豪華な本から小泉今日子の写真集まで、様々な印刷物を開陳し、それぞれどのようなプロセスを経たかを軸にトークが展開して行く。
仕事の内容は様々だが、共通しているのは、どんな意図でデザインされたものかを汲み取りながら、いかに機械や紙、インクなどを使いこなし、成果物へと昇華させていくかという探求の姿勢である。仕事の内容に合わせて、その都度方法や手段が模索されている。こう書くと当たり前のように聞こえるが、実際印刷の現場でこの姿勢を貫くことはそう簡単ではないらしい。
そこには「標準化」という大きな壁が立ちはだかっている。
言わずもがな印刷は大量生産を前提として発展してきた技術である。大量の要求に応え、品質を担保するという必要性が「標準」という物差しを欲し始めるのはごく自然な成り行きだろう。日本に於ける印刷の世界には「ジャパンカラー」という標準規格があり、大半の印刷物はこの規格に則って製作されている。「標準規格」とは「これだけのクオリティは保証します」というもの、つまり粗悪な製品が世に出るのを防ぐためのものと言えるが、熊倉さんの話は、時にそれは「これだけのクオリティ」以上のものを作ることを阻害する危うさが潜んでいることを気づかせてくれる。「ジャパンカラーでしか刷れないのなら、印刷物はwebで良いじゃん」という熊倉さんの言葉は、クオリティ担保のための規格が印刷自体を絶滅へと追い込みかねないという転倒を示唆している。
昨今は「多様性の時代」といわれて久しい。翻って、20世紀は「標準化の時代」であった。機械が世界を席巻し、「グローバルスタンダード」などという言葉ももてはやされた。実際、経済は拡大し、成長というベクトルを皆が共有することが可能な時代だった。「大きな物語」という言葉が、そんな時代をわかりやすく表象している。このような背景の中で、「標準」というある種の共有の論理はすんなりと社会の中に定着していったのだろう。
さて、物語亡き「多様性の時代」。いま僕たちは何を共有しているのだろう。強いて言えば共有できないことを共有している、分かり合えないことを分かり合っているのかもしれない。そんな中では「標準」の価値はどんどん無効化していくのではないか。
「標準」と「機械」がセットだった時代を僕らは既に通り過ぎている。機械に合わせず、作るものに合わせて機械を使いこなす。今の時代に相応しいもののつくり方って、こういう形なのではないかと思う。熊倉さんの話を伺いながら、そんなことが頭をよぎっていた。
今回のトークで唯一失敗だったと思うのは、当日話題に上がった事例がどれも「特殊解」に見えてしまったかもしれないということだ。「コストがあれば」「時間があれば」「クライアントの理解があれば」など、何か特別な好条件下でしか成り立たないように見えてしまったかもしれない。しかし決してそんなことはなく、どんな条件下でも「標準」に捕われず、状況に合わせて方法を見つけ出していく姿勢を感じ取って頂ければ幸いである。言うなれば、僕たちは「全てが特殊解」の時代に生きているのだ。
下の写真を見てほしい。ジャパンカラーを乗り越えろ!と意気投合する二人の顔の、なんと楽しそうなことか。こういう楽しさこそ、「共有」される時代になると良いなと強く思う。
写真(二点とも):松井雄一郎
20100522
20100508
立川シネマスタジオ
立川で友人たちが企画、運営、設計、施工を手がけているシネマスタジオのオープニングイベントに行ってきた。自ら商店街に乗り込み、商店会と交渉し、空き店舗を借り上げ、シェアハウスとカフェを作ってしまったというもの。様々な人を巻き込みながら、半ば強引に計画を推進させるパワーに恐れ入った。今後に向けて仕込んでいる計画もあるようで、さらなる展開が期待できる。とても楽しみ。
オープニングでは建築、デザインの関係者から学者さん、役所の人、商店会のおじさんまでとても雑多な人々が入り乱れていて、誰もがとても楽しそうだった。ちょっと遅刻してしまって聞き逃したのだけど、商店会長さんのスピーチによると「シネマ通り始まって以来の人出」だったのだとか。
まだ始まったばかりだけれど、立川、これからどんどん面白くなりそうだ。
オープニングでは建築、デザインの関係者から学者さん、役所の人、商店会のおじさんまでとても雑多な人々が入り乱れていて、誰もがとても楽しそうだった。ちょっと遅刻してしまって聞き逃したのだけど、商店会長さんのスピーチによると「シネマ通り始まって以来の人出」だったのだとか。
まだ始まったばかりだけれど、立川、これからどんどん面白くなりそうだ。
20100507
公園の快適性
GWは、近所にある「林試の森公園」に二度も行ってしまった。「林試の森公園」は、かつて林野庁の「林業試験場」だったところを公園に改造したところで、試験場時代の名残らしく様々な樹種の大木があり、とても気持ちが良い。この公園は普段から利用者がたくさんいる人気スポットのようだが、特にGW最終日の5月5日は天候に恵まれたこともあって「混雑」と言えるくらいの人出で賑わっていた。レジャーシートを持ち込むのなんてのは当り前で、豪華なピクニックセットや折りたたみ式の椅子やテーブルを用意している人も多い。
風が吹抜け、木漏れ日が落ちるところはめざとく発見され、必ず誰かに陣取られている。太陽の動きに合わせてレジャーシートを動かしている人もいる。でもたまに太陽の動きを忘れて昼寝をしてしまい、直射日光にさらされているおじさんがいたりもして。とにかく最高に気持ちが良い。こういう風景を見ると、みんな公園の快適さを良く知っているんだな、と思う。
こういう環境を建築でも作りたいと常々思っている。ところが、ひとたびああいう快適さを建築で実現しようとすると、とてつもなく大変な道のりが待ち構えていることが多い。
なぜ?みんな公園の快適さは良く知っているはずなのに。
大概の場合、カウンターとして登場するのは高気密高断熱の空調設備依存型室内環境調整方式だ。
では、公園型と空調型(勝手に命名)の違いは何か。それは外部の環境要因に対する態度の取り方だと言える。公園型は、外部の環境要素を最大限利用する。空調型は、外部を出来るだけ遮断する。
確かに、外的要因を遮断すれば安定的に室内環境を整えることができ、平均値的な快適さは担保される。しかし空調機の物理的な限界を超えることはできない。そこを超えるためには、やはり外的要因の有効利用が欠かせない。でも外的要因は不安定で、場合によっては室内環境が少し乱れてしまうリスクもつきまとう。しかし、うまくハマったときの快適さは空調機の限界を軽々と飛び越えてしまう。
リスクを排除するのではなく、うまく軽減し、できるだけ快適な室内環境を作り出すのが建築の重要な役割だろう。建築は、外部を遮断するためではなく、外部と繋がるためにこそ役立つべきだと考えたい。
こういう考え方はとにかくリスクを排除しようという思考が蔓延しているとなかなか受け入れられない。しかも今この時代は、やたらとリスクヘッジに関する技術が向上してしまい、ノーリスクでいかに獲得値を上げるか、ということばかりが取沙汰されているように思う。挙げ句には、本来リスクでないものも、ちょっと不明点があるとすぐにリスクと判定して排除してしまうようなこともある。
リスク排除というと、一見とても強固な正当性が与えられているように見えるけれど、それが取りこぼしてしまうものをきちんと掬い上げることにこそ意義を見いだしたい。
20100106
熊野に行ってきた
年始早々昨年の話になってしまうが、師走の平日ど真ん中に熊野詣でを敢行するという暴挙を成し遂げてきた。「宿泊費はほとんどかからないから」という友人からの誘いがきっかけだったのだが、彼がいいかげんだったこともあり、一体熊野で何が待ち受けているのかさっぱりわからないまま向かうことに。先に熊野入りしていた彼のナビゲーションによってたどり着いたところは、古座川ということころ。紀伊半島の最南端、潮岬からほど近い小さな町。友人達は、この町にある短期滞在施設として貸し出されている一軒家を拠点としていた。僕は3日間だけの滞在だったが、借り主だったnariwaiの伊藤さんは一ヶ月の滞在だとか。
古座川町は、面積でいうと75%以上が限界集落らしい。こういった集落は、日本中に散在している。町を支えていた産業は廃れて仕事が減り、人口も減り、農地は遊休地となっていく田舎の集落。高齢化が進んでこのままでは集落が無くなってしまうかもしれない。
こういうところに何が出来るかという問題に取り組むのはとても難しい。所謂「戦略」を立てようとしても上手くいかないからだ。
根本的な解決への道は果てしなく遠いし、残酷かもしれないが、そもそも解決が必要かという問い自体にYESと答える人がどれだけいるだろうか。日本のどこかで集落が消えてなくなる、それで何が困るのかという問いに対する明確な答えは無いのかもしれない。
ただ、僕としてはそんな世界にはなってほしくないと強く思うのである。
東京を中心とした経済の動きに乗れなければ存在する意義がないと烙印を押されてしまうような社会にはなってほしくない。というか、そもそも資本主義というのは有象無象の多様性を担保できる仕組みのはずだった。ところが資本主義が市場原理主義と曲解され、金融が幅を利かせ始めた頃から市場と相性の悪いものは淘汰されても問題ナシ!という事態に陥ってしまっている。これでは面白くない。
話が飛んでしまったが、古座川。
ここには、いろいろと面白い動きが出始めている。僕がお世話になった短期滞在住宅もその一つ。古座川を体験してもらい、興味を持ってもらって、町への移住者、定住者を増やそうという試み。
また、こんな施策も始まっている。地域づくり活動の企画運営スタッフ募集。
僕が古座川に滞在している時にはここで行われている「ハナアミ」の体験もさせてもらった。近所に生えている花を摘んできて、アレンジメントを作るというもの。これは、とても素晴らしかった。生活を豊かにする資源は身近にあるということを再認識させてくれる出来事。なにより、アレンジメントを作っているおばさま達がとても楽しそうだったのが印象的だった。まだテスト段階だが、全国に向けて販売可能な仕組み作りも模索されているとのこと。
どれも小さな試みだが、行政レベルや住民レベル、さまざまな位相で動きが出始めている。
立ちはだかる大きな問題に萎縮していてはなにも始まらない。戦略は無くとも、出来ることから、小さなことから始めるしかないのだ。
実は、この「始める」というのが最も難しいのかもしれない。ここがクリアできれば、可能性はぐっと広がるはずだ。
古座川の人々は、動き始めている。応援したい。
20100104
20090929
青森/十和田
連休は青森へ。
青森県立美術館/青木淳。
青木淳の言っていた「意味の行き来」ということを、やっと実感をもって理解することができた。全体の構成から細部に至るまで、全てに於いて徹底されている。
目につつくところに既製品が全くない。
既製品を使わずに造作したり、通常であれば見えてくる様々な納まりの要素をできるだけ見えないように納める、というのは、比較的多くの場合に於いて検討される項目だろう。一方でそれらの納まりの手法はかなり慣習化していて、既製品を使ったり納まりの要素を露呈させたりするのと同じくらい思考停止状態の判断だとも言えなくはない。
青森県立美術館は、「意味の行き来」という青木さんの言葉一発で、ディティール操作を全て正当化しているように思う。建物全体を遠くから眺める視点から、ドアを開ける時の指先の感覚まで、全ての体験において「意味の行き来」を体感できる、そんな建物だった。
目に留まるものの意味が数秒単位で変化していく、それはまるでおとぎの国を彷徨い歩いているような感覚であり、こういう体験が建築で実現できるのか、というのはとても驚きの体験だった。
ただ、やっぱり「手摺」とか「階段」とかはいかんともし難い要素であった模様。
残念ながら、「階段」や「手摺」などに於いては青木さんも敗北してしまったようだ。
ちなみに、この日の企画展は「吉村作治の新発見!エジプト展」なるもの。県立美術館ならではのプログラム。
正直、展示室との相性はあまり良いとは言えなかったけれど、さすがにこの手の展覧会は集客能力があるようで、超満員だった。
国際芸術センター青森/安藤忠雄
開催中の「松村泰三×森田多恵展 」はなかなか面白かった。展示空間と作品の相性も良かったのに、こちらは逆に超閑散。これでは予算も取りづらいのではないか。ハコモノ行政の悪しき事例として非難される事態も容易に想像できる。しかし批判されるべきはむしろ「ハコモノ行政」ではなく、「ハコを作ったら満足してコンテンツに予算を取らない行政」なのではないか。
ちなみに、とても有能なキュレーターの服部くんがこの秋からここに赴任した。様々な制約はあると思うけれど、がんばって盛り上げてほしいと強く思う。
十和田市現代美術館/西沢立衛
建物以上に目当てだったと言っても過言ではない、栗林隆(数年前に本郷のトーキョーワンダーサイトで見てからファンなのです)の作品が堪能できてまずは満足。でも、作品としての切れ味はワンダーサイトのバージョンの方が上なのではないかという気も。栗林作品は、コミッションワークとして箱が用意されるよりも、どこかのギャラリーを舞台とした方が相性が良いように思う。
西沢さんのコンセプトに偽りはなく、とても街に開かれた建物だった。しかし、なんで日本の美術館は撮影禁止なんだろうか。これでは、せっかく建物が街に対して開いていても台無し。美術館という箱の中で額縁に入っていて、ばっちり照明があたった作品をありがたく鑑賞するなんてのはごく限られた芸術への接し方でしかない。
芸術にはもっと可能性があるということを建物が実現しようとしているのに、あの運営管理方法は無いのではないか。
ところで、今回の旅で最も興奮したのは青森から十和田に移動する際に八甲田で目にしたブナの林だった。
何度も車を止めて足を踏み入れたいと思ったのだけど、道が狭い上になぜか意外と交通量が多く、ちょうど良い駐車スペースを見つけることができなかった。悔やまれる。ぜひまた訪れなければならない。
青森県立美術館/青木淳。
青木淳の言っていた「意味の行き来」ということを、やっと実感をもって理解することができた。全体の構成から細部に至るまで、全てに於いて徹底されている。目につつくところに既製品が全くない。
既製品を使わずに造作したり、通常であれば見えてくる様々な納まりの要素をできるだけ見えないように納める、というのは、比較的多くの場合に於いて検討される項目だろう。一方でそれらの納まりの手法はかなり慣習化していて、既製品を使ったり納まりの要素を露呈させたりするのと同じくらい思考停止状態の判断だとも言えなくはない。
青森県立美術館は、「意味の行き来」という青木さんの言葉一発で、ディティール操作を全て正当化しているように思う。建物全体を遠くから眺める視点から、ドアを開ける時の指先の感覚まで、全ての体験において「意味の行き来」を体感できる、そんな建物だった。
目に留まるものの意味が数秒単位で変化していく、それはまるでおとぎの国を彷徨い歩いているような感覚であり、こういう体験が建築で実現できるのか、というのはとても驚きの体験だった。
ただ、やっぱり「手摺」とか「階段」とかはいかんともし難い要素であった模様。
残念ながら、「階段」や「手摺」などに於いては青木さんも敗北してしまったようだ。
ちなみに、この日の企画展は「吉村作治の新発見!エジプト展」なるもの。県立美術館ならではのプログラム。
正直、展示室との相性はあまり良いとは言えなかったけれど、さすがにこの手の展覧会は集客能力があるようで、超満員だった。
国際芸術センター青森/安藤忠雄
開催中の「松村泰三×森田多恵展 」はなかなか面白かった。展示空間と作品の相性も良かったのに、こちらは逆に超閑散。これでは予算も取りづらいのではないか。ハコモノ行政の悪しき事例として非難される事態も容易に想像できる。しかし批判されるべきはむしろ「ハコモノ行政」ではなく、「ハコを作ったら満足してコンテンツに予算を取らない行政」なのではないか。ちなみに、とても有能なキュレーターの服部くんがこの秋からここに赴任した。様々な制約はあると思うけれど、がんばって盛り上げてほしいと強く思う。
十和田市現代美術館/西沢立衛
建物以上に目当てだったと言っても過言ではない、栗林隆(数年前に本郷のトーキョーワンダーサイトで見てからファンなのです)の作品が堪能できてまずは満足。でも、作品としての切れ味はワンダーサイトのバージョンの方が上なのではないかという気も。栗林作品は、コミッションワークとして箱が用意されるよりも、どこかのギャラリーを舞台とした方が相性が良いように思う。西沢さんのコンセプトに偽りはなく、とても街に開かれた建物だった。しかし、なんで日本の美術館は撮影禁止なんだろうか。これでは、せっかく建物が街に対して開いていても台無し。美術館という箱の中で額縁に入っていて、ばっちり照明があたった作品をありがたく鑑賞するなんてのはごく限られた芸術への接し方でしかない。
芸術にはもっと可能性があるということを建物が実現しようとしているのに、あの運営管理方法は無いのではないか。
ところで、今回の旅で最も興奮したのは青森から十和田に移動する際に八甲田で目にしたブナの林だった。
何度も車を止めて足を踏み入れたいと思ったのだけど、道が狭い上になぜか意外と交通量が多く、ちょうど良い駐車スペースを見つけることができなかった。悔やまれる。ぜひまた訪れなければならない。
20081215
S-House
S-Houseが、10+1のwebサイトで紹介されています。
「オープンハウス情報」のコーナー。
先日、MDRの荻原さんに撮影して頂きました。
カメラに映らないように注意していたつもりだったのですが、ルーバーの建具越しに僕の足が…。
「オープンハウス情報」のコーナー。
先日、MDRの荻原さんに撮影して頂きました。
カメラに映らないように注意していたつもりだったのですが、ルーバーの建具越しに僕の足が…。
20081208
裁判員制度
先日、NHKで裁判員制度に関する番組をやっていました。
「あなたは死刑を言い渡せますか」
タイトルからして、ものすごいことになっています。
実際、問題は結構深刻です。
番組では「模擬裁判」という形式で示されていましたが、「死刑」の判決、つまり人の生を終わらせるか否かという判断を一般の素人が求められるということは、想像以上に酷な体験です。さらに裁判員には「守秘義務」があり、裁判の内容を他言したり、誰かに相談したりということは許されないのだとか。これは辛いです。いくら犯罪の被告とはいえ、ある人物を死に至らしめたという体験を、一生、自分一人で抱え込んで生き続けなければならない。僕には出来そうにもありません。
しかも、裁判に際しては、普段のニュースでは目にすることの無い凄惨な証拠や資料にも目を通すことになるでしょう。スプラッター系が大の苦手の僕でなくても、堪え難い出来事ではないでしょうか。
誰が何のために作った法律か知りませんが、多くの人にとってかなりの苦痛を強いるのではないかと思ってしまいます。
そう。誰が何のために?
番組を通して見て、最も疑問が残ったのは「なぜこの制度が出来たのか」ということです。
いくら考えてもさっぱりわかりません。誰にどんな利益があるのか?
出演している法整備に関わった人や法曹たちは、皆、口を揃えて「裁判制度は今のままではいけない。市民感覚を判決に反映させなければならない」と言います。
しかし、「今のままではいけない」と言い出さなければならない人物とは誰か?
法曹関係者が自ら言い出すというのはあり得ない。誰からも何の批判も無いのに、自ら自己批判を行い、自己改革を断行するなどという人はまずいないわけです。
国民の声か?番組では、大半の国民が「この制度に参加したくない」と答えているというアンケート結果が示されていました。そもそも、「人がどう裁かれるかに口出しが出来ないなんておかしい」などと声高に主張する国民がそれほどたくさんいるというのも考えにくい。
政治家か?この法律によって何かしらの天下り先が確保されているわけでもなさそうです。どこかの地方や団体になんらかのメリットがあるのでしょうか?それも考えにくい。
では誰が?何のために?
正直なところ、どんな利益が目指されているのかさっぱりわからない。
これが、この制度の一番不気味なところです。
考えれば考える程、怖くなってきます。
それにしてもNHKは、番組の一部に生放送の討論を組み込んでいました。
すごいことだと思います。
「生の意見を包み隠さず伝える」という気迫が感じられます。
もちろん、出演者の人選に際してなんらかのバイアスがかかっていることは否めないのですが、それにしても「生放送」という一切編集の効かない手法を採用するとは。しかもNHKにはCMという逃げ場もないし。
実際、議論は白熱し、やや迷走の気配が漂う瞬間もありましたが、全体としてはとても意義のあるものだったと思います。
「番組のデザイン」としては、かなり大胆で、評価に値するものなのではないでしょうか。
「あなたは死刑を言い渡せますか」
タイトルからして、ものすごいことになっています。
実際、問題は結構深刻です。
番組では「模擬裁判」という形式で示されていましたが、「死刑」の判決、つまり人の生を終わらせるか否かという判断を一般の素人が求められるということは、想像以上に酷な体験です。さらに裁判員には「守秘義務」があり、裁判の内容を他言したり、誰かに相談したりということは許されないのだとか。これは辛いです。いくら犯罪の被告とはいえ、ある人物を死に至らしめたという体験を、一生、自分一人で抱え込んで生き続けなければならない。僕には出来そうにもありません。
しかも、裁判に際しては、普段のニュースでは目にすることの無い凄惨な証拠や資料にも目を通すことになるでしょう。スプラッター系が大の苦手の僕でなくても、堪え難い出来事ではないでしょうか。
誰が何のために作った法律か知りませんが、多くの人にとってかなりの苦痛を強いるのではないかと思ってしまいます。
そう。誰が何のために?
番組を通して見て、最も疑問が残ったのは「なぜこの制度が出来たのか」ということです。
いくら考えてもさっぱりわかりません。誰にどんな利益があるのか?
出演している法整備に関わった人や法曹たちは、皆、口を揃えて「裁判制度は今のままではいけない。市民感覚を判決に反映させなければならない」と言います。
しかし、「今のままではいけない」と言い出さなければならない人物とは誰か?
法曹関係者が自ら言い出すというのはあり得ない。誰からも何の批判も無いのに、自ら自己批判を行い、自己改革を断行するなどという人はまずいないわけです。
国民の声か?番組では、大半の国民が「この制度に参加したくない」と答えているというアンケート結果が示されていました。そもそも、「人がどう裁かれるかに口出しが出来ないなんておかしい」などと声高に主張する国民がそれほどたくさんいるというのも考えにくい。
政治家か?この法律によって何かしらの天下り先が確保されているわけでもなさそうです。どこかの地方や団体になんらかのメリットがあるのでしょうか?それも考えにくい。
では誰が?何のために?
正直なところ、どんな利益が目指されているのかさっぱりわからない。
これが、この制度の一番不気味なところです。
考えれば考える程、怖くなってきます。
それにしてもNHKは、番組の一部に生放送の討論を組み込んでいました。
すごいことだと思います。
「生の意見を包み隠さず伝える」という気迫が感じられます。
もちろん、出演者の人選に際してなんらかのバイアスがかかっていることは否めないのですが、それにしても「生放送」という一切編集の効かない手法を採用するとは。しかもNHKにはCMという逃げ場もないし。
実際、議論は白熱し、やや迷走の気配が漂う瞬間もありましたが、全体としてはとても意義のあるものだったと思います。
「番組のデザイン」としては、かなり大胆で、評価に値するものなのではないでしょうか。
20080701
告知
今週末行われる「建築設計お仕事ガイド」の出版記念トークショーで司会をやることになりました。
皆様、ご多忙の事とは思いますが、足をお運び頂ければ幸いです。
以下イベント概要です。
/////////////////////////////
「建築設計お仕事ガイド」出版記念トークショー
・日時:7月4日(金)19時半~
・会場:5TANDA SONIC
・入場料:1,000円(学生500円)
・出演者:馬場正尊(openA代表)
× 松本理寿輝(フィルカンパニー副社長)
× 藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)
・司会:伊藤暁(MS4D)
・プロデュース:倉島陽一(A.C.O.代表)
・協力:エクスナレッジ
19:30~ 開場
20:00~ 自己紹介+トークショー
22:00~ 質問コーナー+サロンタイム
23:00~ お開き
/////////////////////////////
皆様、ご多忙の事とは思いますが、足をお運び頂ければ幸いです。
以下イベント概要です。
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「建築設計お仕事ガイド」出版記念トークショー
・日時:7月4日(金)19時半~
・会場:5TANDA SONIC
・入場料:1,000円(学生500円)
・出演者:馬場正尊(openA代表)
× 松本理寿輝(フィルカンパニー副社長)
× 藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)
・司会:伊藤暁(MS4D)
・プロデュース:倉島陽一(A.C.O.代表)
・協力:エクスナレッジ
19:30~ 開場
20:00~ 自己紹介+トークショー
22:00~ 質問コーナー+サロンタイム
23:00~ お開き
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20080526
愛するなら歴史を学べ
かなり久しぶりの更新となってしまいました。
土曜日に、危口統之氏主宰「悪魔のしるし」の第六回公演「メタル大学(前期課程)」に行ってきました。
なんというか、正確に説明するのは難しいのですが、いわゆるパフォーマンスです。危口氏が愛してやまないメタル音楽について講義が行われ、皆でメタルに対する造詣を深めようというもの・・・のはずが、氏のあまりに深いメタルへの愛が災いし、講義内容は膨大なものへ。なんとかメタル誕生までの歴史を語ったところで時間切れとなり講義終了。残りは後期課程に持ち越しとなりました。危口氏としても不本意な結果だったようです。
しかし、メタルの歴史を垣間みることができたのはとても示唆深い体験でした。
何事にも歴史あり。
僕も音楽は好きで、色々なジャンルに手を出していますが、気に入ったミュージシャンのルーツを辿ったりという興味はあっても、全体的な系譜や流れを整理したり、背景について学んだりということにはあまり興味が持てませんでした。耳に入ってくる音に対する刹那的な興奮が僕に十分な快楽を与えてくれたので、歴史のことを知りたいとまではなかなか思わなかったのかもしれません。あるいは、音楽は知識としてではなく、本能で楽しむべし、という思い込みがあったのも否定は出来ない。しかし、歴史的な分析はやはり面白い。
学生時代に建築の歴史を初めてまじめに勉強した時に、建築に対する視野が一気に広がってとても興奮したことを思い出します。
歴史を知ることの重要性を改めて知らしめられたイベントでした。
というわけで、僕も愛しているFUNK MUSICの歴史を紐解いてみようと、こんな本(画像)を買ってみたりしてしまったのです。
「ファンクとは、七色に輝くものである。びんびん感じるもの、そしてセクシーで甘美なフィーリングだ。」
冒頭からかなりのテンションです。最後までついていけるか・・・。まあ、ゆっくり読み進めてみようと思います。
ちなみに「悪魔のしるし」第4回公演は僕らの事務所の一階、5TANDA SONICにて行われました。その記録はこちらとかで。毎回かなり面白い内容です。次回が楽しみ。
興味のある方はこちらで。
20080115
Live Round About Journal
1月19日、26日に開催される「Live Round about journal」の26日に出演します。
最近の仕事を中心に短いレクチャーを行う予定です。
友人の藤村くんが主催。他にも大学の後輩でもある釜萢+針谷や、東工大の元気な学生チームg86、柄沢祐輔、平田晃久、中村拓志、吉村靖孝などなかなか豪華なラインナップ。
初めてお会いする方もいるので楽しみです。
ちなみに1月19日は大西+百田、伊庭野+藤井、武藤圭太朗、中央アーキ、長谷川豪、松川昌平、田中浩也、永山祐子、中山英之とこちらもそうそうたるメンツです。
Live Round about journal「愛と力の関係」
INAX GINZA 7Fクリエイティブスペース
定員:100名(申込不要・先着順)
入場:無料
ぜひお越し下さい。
最近の仕事を中心に短いレクチャーを行う予定です。
友人の藤村くんが主催。他にも大学の後輩でもある釜萢+針谷や、東工大の元気な学生チームg86、柄沢祐輔、平田晃久、中村拓志、吉村靖孝などなかなか豪華なラインナップ。
初めてお会いする方もいるので楽しみです。
ちなみに1月19日は大西+百田、伊庭野+藤井、武藤圭太朗、中央アーキ、長谷川豪、松川昌平、田中浩也、永山祐子、中山英之とこちらもそうそうたるメンツです。
Live Round about journal「愛と力の関係」
INAX GINZA 7Fクリエイティブスペース
定員:100名(申込不要・先着順)
入場:無料
ぜひお越し下さい。
20080103
20070601
10+1
10+1という雑誌の「テクノロジーロマン」という連載企画に参加しています。
主に建築の中にある住宅設備(住設)に焦点を当て、技術の進歩と人間の生活について考察する、という企画です。
住設というのは、建築に付随するオマケ的要素だと考えられがちですが、オマケではなく主役としてスポットを当て、そこから建築を考えるというのは相当マニアックな企画です。
企画に参加した当初はどうなることかと心配でしたが、調べてみると最近の住設には信じられないほど高度なテクノロジーが織り込まれていて驚きます。とても面白い。
単なる技術論にとどまらず、どんどん話が広がっていきます。
今までは、過剰とも言えるほど様々な機能が搭載された住設やその機能を成り立たせている技術などを話題にしてきました。
しかし、次回のテーマは「家族」。これは難しい。
住設から住宅や家族、コミュニティについて考えるというのは、いくら住設を主役にすると言っても無茶な話です。
ところが、考えているうちに発見することもありました。
それは、コミュニティが、実は住設によって規定されている、という考え方がありえるかもしれない、ということです。
風呂、電話、テレビ…かつて、さまざまな「住設」は地域の共有財でした。
近所にお風呂を借りにいく、電話を借りにいく、みんなで集まってTVを見る・・・。どれも、一昔前であれば日常的に見られていた風景です。
これは、住設を共有していることがコミュニティ単位の基準となる、という側面があるということです。
「住設」とは公共財であり、設置されている空間には公共性が備わっていた。
ところが、経済成長、技術進歩によって住設がどんどん住宅の中、さらには個室の中に取り込まれていく。
共有財であった住設が、私財化されていくわけです。
「住設」の私財化は設置される空間の公共性も必要としなくなっていき、それに伴って、かつてそこにあったコミュニティが変質していくと考えることができます。
このように考えると、住設というのがコミュニティの形成にとても大きく関わっているような気がしてきます。
まさに主役。
今はフラッシュアイデアの状態ですが、ここから、さらに話を膨らませていけたら面白そうです。
まだまだどうなるかわかりませんが、楽しみです。乞うご期待。
主に建築の中にある住宅設備(住設)に焦点を当て、技術の進歩と人間の生活について考察する、という企画です。
住設というのは、建築に付随するオマケ的要素だと考えられがちですが、オマケではなく主役としてスポットを当て、そこから建築を考えるというのは相当マニアックな企画です。
企画に参加した当初はどうなることかと心配でしたが、調べてみると最近の住設には信じられないほど高度なテクノロジーが織り込まれていて驚きます。とても面白い。
単なる技術論にとどまらず、どんどん話が広がっていきます。
今までは、過剰とも言えるほど様々な機能が搭載された住設やその機能を成り立たせている技術などを話題にしてきました。
しかし、次回のテーマは「家族」。これは難しい。
住設から住宅や家族、コミュニティについて考えるというのは、いくら住設を主役にすると言っても無茶な話です。
ところが、考えているうちに発見することもありました。
それは、コミュニティが、実は住設によって規定されている、という考え方がありえるかもしれない、ということです。
風呂、電話、テレビ…かつて、さまざまな「住設」は地域の共有財でした。
近所にお風呂を借りにいく、電話を借りにいく、みんなで集まってTVを見る・・・。どれも、一昔前であれば日常的に見られていた風景です。
これは、住設を共有していることがコミュニティ単位の基準となる、という側面があるということです。
「住設」とは公共財であり、設置されている空間には公共性が備わっていた。
ところが、経済成長、技術進歩によって住設がどんどん住宅の中、さらには個室の中に取り込まれていく。
共有財であった住設が、私財化されていくわけです。
「住設」の私財化は設置される空間の公共性も必要としなくなっていき、それに伴って、かつてそこにあったコミュニティが変質していくと考えることができます。
このように考えると、住設というのがコミュニティの形成にとても大きく関わっているような気がしてきます。
まさに主役。
今はフラッシュアイデアの状態ですが、ここから、さらに話を膨らませていけたら面白そうです。
まだまだどうなるかわかりませんが、楽しみです。乞うご期待。
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