友人に誘われて、久しぶりに高橋匡太さんのライブパフォーマンスに行ってきました。
高橋匡太さんは、最近では十和田市現代美術館の常設ライトアップ等を手がけている、光を扱うアーティストです。
初めて観た彼のパフォーマンスは2006年にタマダアートプロジェクトで行われた「flo+out」でした。そこで目にしたのは「幻影巻取機」なる不思議な道具。回転する「ろくろ」にDVを取付けて、その上に色砂や液体を落としながら撮影し、ライブで編集して映像を作る、というものでした。原理はかなりアナログですが、微妙にタイムラグを付けたり、ディレイ気味に映像を投影するなど、PCならではの手法も盛り込まれています。
その頃は様々な映像クリエーターやVJがいて、PCを駆使したすごい作品が世の中に溢れていたのですが、その中でアナログな映像作品がとても衝撃的で、技術に踊らされていない、とても新鮮なものを見せてもらったパフォーマンスでした。
あれから2年。久々に見る高橋さんのパフォーマンスは、ますますパワーアップしていましたが、今回はLEDを用いた道具がメインで正直ちょっと残念なところもありました。
つくり出される光や映像はとても面白かったのですが、どうしても予定調和的な雰囲気が拭いきれず、やや消化不良気味。
いま、日本人のアーティストは皆「村上隆の呪い」に取り憑かれているように思います。つまり、アート作品には「コンセプト」が最も重要で、単純に「絵がうまい」とか「細かい描写ができる」とか、いわゆる人間の手技による成果は意味を持たない、という問題提起です。
この宣告があまりに強烈だったため、アーティストたちは皆「手技」に頼ることが悪であるように思いこむという呪いにかかってしまった。
これはある意味、的を射た指摘だと思います。でも門外漢としては、必ずしも人間の手技が価値を持たないわけではないと思うし、「手技」による表現自体がコンセプトとなるような作品も存在しうるとも思います。
この問題を考えると、いつも20世紀初頭に建築の世界で起った「工業か手工芸か」という問題を思い出さずにはいられません。
新たに登場した工業というものの作り方に対して、人間の手作業は意味を持つのかと言う問題です。結局工業が勝利したのは周知のとおりです。
しかし、技術はただ「使えば良い」ものではなく、いかに使うかということこそが問題のはず。
高橋さんの2006年のパフォーマンスは、その問題にとても鮮やかな答えを提示しているように感じました。
今回のパフォーマンスは、前回と比べると技術に対する鋭い批評性という点に於いて、やや物足りなさが残るものでした。
もちろん、それが重要なのかどうかも含めて、一考の余地があるのはいうまでもありませんが。
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