20100208

Live Round About Journal

2月6日、藤村龍至率いる「TEAM ROUNDABOUT」主催のLive Round about Journal「メタボリズム2.0」へ。これが、とても面白かったわけであります。

プレゼンテーターの講演+全体討議+ライブ編集+フリーペーパー発行というフォーマットも三年目で、今年のプレゼンテーターは以下の方々。
・連勇太郎
・酒井康史
・李明喜
・岡瑞起
・池上高志
・藤本壮介
・磯崎新
コメンテーターは東浩紀、倉方俊輔、南後由和、黒瀬陽平、橋本純という面々。
モデレータは濱野智史(遅刻)、藤村龍至。
各プレゼンテーターの内容などについては各所にアップされているのでここでは割愛、ということで、ここでは(濱野氏遅刻の次に)最も印象的だった全体討議の中での「藤村龍至吊るし上げ事件」について思ったことを書きたいと思う。
ことの発端は磯崎氏による「この場には『何が良い建築で何が悪い建築なのか、何がいい環境で何が悪い環境なのか』についての議論がない」との指摘だった。
まず、とにかく残念だったのは、藤村氏を中心とする議論に対して差し出されたであろうこの指摘に対して、藤村氏が自ら回答せず、マイクを李氏や黒瀬氏に委ねてしまったことだ。これは良くない。
磯崎氏による指摘は、非常に的を射ている。藤村氏のマニフェストが一定の合意を得ながらも常に批判的に取扱われてしまうのも、この問題に起因する。「批判的工学主義」「超線形プロセス論」といった彼の理論はあくまで方法論であって、それをどうやって結果に繋げていくのかについては答えが提示されていない。それどころか、藤村自身が「形はどうでもいい」などと発言してしまうものだから、余計に誤解を招いてしまう。
当然のことながら、良い/悪いの判断基準が形のみに依存するわけではない。それに、藤村氏だって形には注意を払っているだろうし、興味もあると思う(無いなら建築家をやめるべきだ)。
ただ、形云々についてナイーブに議論しているだけでは建築家はどんどん社会から乖離してしまう、という問題提起をしたいだけなのだ。
ここまでは良い。だが、建築家として仕事をする以上、最終的には出来上がる「もの」に責任を持たなければいけないし、何が良くて、何が悪いと思っているのか、という問題にはきちんと意思表明をすべきだろう。
だから、磯崎氏の問題提起に対して、自身の言葉で返答しなかったのには失望した。アホかと思った。
この煮え切らない態度に苛立った会場からは、「藤村はビジョンを示せ」「未来への視点を提示せよ」といった非難が噴出するという展開に。自ら回答を拒否した結果であり自業自得だが、一方でこれはちょっと酷だったように思う。
そもそも、物語亡きこの時代に大きなビジョンを描くことは不可能に近い。「今の意志」という大きなマスは存在しない。ビジョンはローカルにしか提示できないし、そのレベルで満足していてはコンテクストとの戯れでしかなく、「社会」や「都市」を語る言説にはなり得ない。
ただ、やっぱりビジョンがなければ、人を動かし、前に進んでいくことは難しい。どこに行くのかわからない列車に乗りたい人はいないだろう。だから物語(ビジョン)亡き時代にいかにものを作るかが問われているのであり、その時に大事なのがシステムであり、プロセスであり、アルゴリスム(的思考)なのだ。藤村氏は「コンテクストに沿った建物を作りたい」と言っていたが、コンテクストに依存するのではなく、いかにコンテクストから「良い建築」「良い環境」を導きだすか、こそが重要だろう。
ビジョンはローカルでも構わない。というかむしろローカルなビジョンこそが求められている。だから、ビジョンは「結果」で良いのだと思う。ただ、放棄してはいけない。
「ローカルなビジョンを構築するために必要なものは何か」という問いに対して、コンテクストから結果を導きだし、多様な要素を読込みながら計画をまとめあげていく「批判的工学主義」や「超線形プロセス論」が一つの答えの手掛かりにはなっていると思う。一義的なビジョンをかざすのではなく、多義的に計画を生成していくための議論こそが社会や都市を語っていく上で重要だと思うし、藤村氏にはその可能性について語ってほしかった。
まあ、藤村批判が噴出していた会場でも、ビジョンを描くことの困難さにはみんな承知の上だったろうとも思う。だからこそ、「汚名をかぶってでも未来を語りたい」と言い切った東浩紀氏の言葉は、とても力強く心に響いたのだった。
あの心意気溢れる発言は、藤村氏に向けてというよりもあの会場にいた建築関係者全員に向けられたものだったように思う。