20071225

10+1 No.49

10+1 No.49 執筆

20071214

目黒ビル


目黒テナントビルのファサード改修が竣工しました。
8月の記事にも書きましたが、今回のテーマは「看板」です。

テナントビルにおいて、ファサードは重要な広告、看板スペースであり多くのテナントビルのファサードは商業的な要請がもたらす看板に覆い尽くされています。「かに道楽」のように、看板がものすごい存在感を持っている例もとても多い。一方で「テナント」とは常に入れ替わりを前提としたテンポラリーなものであり、テナントが変わる度に建物の外壁がまったくの別物に姿を変えるようなケースも珍しくはありません。
建物、ひいては街並の印象がテナントの商業的要請によって大きく方向付けられる、というのは決して好ましい状況ではありませんが、かといって看板を規制するルールを持ち込んでしまうような方法は、経済活動によって支えられているテナントビル、あるいは都市全体にとって自己矛盾的であり、持続力を持ち得ません。このような状況の中で、「テナントビルのファサード計画」とはいかなる意味を持ち得るのでしょうか。
ここでは、「看板」が建物のファサードと一体となるように計画しています。
看板を規制せず、拒絶せず、テナントの自由な経済活動を懐深く受け入れる。テナントの変化に左右されず、むしろその経済的代謝に自律的に呼応し、かたちや様相を変化させる。しかし根本的な質は揺るがない。そんな強度を持った表層を纏うことができれば、テナントビルのファサードが持つ意味も変わってくるのではないかと考えています。
テナントが決まって、看板が入った様子を見るのが楽しみです。

20071023

南方熊楠



ワタリウム美術館で開催中の、下記展覧会の展示計画をやりました。




「クマグスの森展」南方熊楠の見た夢
会期:10月7日(日)〜08年2月3日
開館時間:11:00〜19:00(水曜日は21:00まで)
会場:ワタリウム美術館
会場設計:藤原徹平+伊藤暁+平辻里佳+川口圭介
http://www.watarium.co.jp/exhibition/0709kumagusu/index.html

今回の計画は、たくさんの学生さんの協力のもと、セルフビルドで製作を行いました。
南方熊楠という、巨大な才能と異様な執着心を併せ持った奇人の魅力をしっかりと感じて頂ける計画になっていると思います。
熊楠の直筆スケッチが多数展示される機会もとても稀少。
一枚一枚は小さな物ですが、その中にびっしりと書き込まれたメモからは凄まじい気迫が伝わって来ます。
ぜひご覧になって下さい。

20070930

10+1 No.48

10+1 No.48 執筆

20070828

看板

ブラジルのサンパウロで、なにやらすごいことが行われているようです。
http://pingmag.jp/J/2007/08/27/sao-paulo-no-logo/
なんと、看板、広告などを法律で禁止してしまったとのこと。
目的は「街をきれいにする」ことらしいですが、こういう法律が実現したという事態には驚かされます。
日本でも屋外看板広告は街中にあふれていますが、あれが全部なくなったらどんな風景になるのでしょうか?
街はきれいになるのか?
日本で実現するとこにはリアリティを感じづらい出来事です。あるいは、Web等の広告が高度に発展し、街頭広告が費用対効果的に効率が悪い、というようなことになれば、自然と広告の無い街の風景が実現するのかもしれませんが。

個人的には、屋外看板広告に対してそれほど否定的な思いを抱いてはいません。
美しいとは思っていないけれど、それは広告があること自体に問題があるのではなく、そのあり方の問題だと思っています。
きれいな建物にとんでもない看板広告が掲げられている様子を目の当たりにしてがっかりすることもありますが、社会が自由な経済活動を基盤としている以上、看板の存在自体を否定してしまっては本質的な解決に向かいません。

いま施工中のテナントビルファサード改修は、そんなことを考えながら計画した物件です。
テナントビルである以上、いずれ看板が設置されることは明らかです。
その状況を否定せず、拒絶せず、前向きに受け入れる。テナントの変化に左右されず、むしろその変化にきちんと呼応し、様相を変化させる。けれども全体的な質は変わらない。そんな強度を持ったファサードが実現出来れば、テナントビルが街に発するメッセージも変わってくるのではないかと考えています。10月末竣工予定。

それにしても、サンパウロで、政治を動かし経済に影響を与えていくほどダイナミックな「街をきれいにしたい」という思いが渦巻いている様子には少なからず感動を覚えました。

20070720

貨幣論


岩井克人の「貨幣論」を読む。
経済は門外漢なので、議論の本質についてはあまりきちんと理解できていないと思いますが、ものの考え方とか、議論の展開の方法論としてはとても参考なります。
貨幣を「実態」と「形態」という深層と表層に分離してその本質を探ろうということですが、その論の是非はともかく、「共同体」という概念を持ち込んでいるのは面白い。
制度やシステムから論を導くよりも、より身体的かつ本能的な側面に注目したアプローチのように思います。
ただ、その結果として循環論法に頼ってしまうのはちょっと物足りないのですが。

というか、マルクスという人はかなり神がかっていたのではないかと。そして、経済界というのは未だにマルクスの亡霊に取り付かれているようです。マルクスを読込み、批判し、それを乗り越えようと様々な試みが行われているものの、常に基準としてのマルクスから逃れることはできない。
それは僕らが未だにコルビュジエという巨人にに捕われているのと同じようなものかもしれません。
しかし、そのような巨人がいるということは、財産です。

まあ、世の中の万事をメタレベルで支配しているのは経済、というのはなんとなく正しいような気がしているので、その片鱗に触れることができるのは単純に面白いです。

20070709

響彩陸離

日曜日、友人が出演するアートイベント「響彩陸離」@浅草アートスクエアへ。
このイベントは電子音響音楽ライブというパフォーマンスらしいのですが、こういうものを鑑賞するのは初めてなので、事前知識ゼロで会場に到着。
この友人が制作している音楽はいままでいくつか聴いたことがありましたが、今回のライブは予想を覆す内容でした。
そこにあったのは、心地い音の響きとか、美しい旋律とか、そういう表現をたのしむわけではなく、ただ単純に、そこに「音」注ぎ込まれていくのに身を任せることしかできないという状態でした。気を抜くと溺れてしまいそうな緊張感まで漂っています。
「音」とは何かを突きつけられるような体験。
パラジャーノフの映画を見ている感覚に近いかもしれません。
久々にびっくりした出来事でした。こういう体験は自分の中で咀嚼するのに時間がかかります。
電子音響音楽は、ちょっと事後的に調べてみたところ、とてもたくさんのコンテクストを背負ってそうな様子が垣間みれましたが、個人的にはあまり予備知識を入れずに純粋に音と戯れるような楽しみ方の方が合っているように思いました。

しかし会場の椅子、これが非常によろしくなかったです。
長時間の使用にはちょっと厳しい。当日は朝から予定がびっしりで疲れていたのもあるのかもしれませんが、後半は腰や肩が重くなってしまい、音に集中できませんでした。
椅子のせいではなく歳の問題でしょうか??

20070630

10+1 No.47

10+1 No.47執筆

20070601

10+1

10+1という雑誌の「テクノロジーロマン」という連載企画に参加しています。
主に建築の中にある住宅設備(住設)に焦点を当て、技術の進歩と人間の生活について考察する、という企画です。
住設というのは、建築に付随するオマケ的要素だと考えられがちですが、オマケではなく主役としてスポットを当て、そこから建築を考えるというのは相当マニアックな企画です。
企画に参加した当初はどうなることかと心配でしたが、調べてみると最近の住設には信じられないほど高度なテクノロジーが織り込まれていて驚きます。とても面白い。
単なる技術論にとどまらず、どんどん話が広がっていきます。
今までは、過剰とも言えるほど様々な機能が搭載された住設やその機能を成り立たせている技術などを話題にしてきました。

しかし、次回のテーマは「家族」。これは難しい。
住設から住宅や家族、コミュニティについて考えるというのは、いくら住設を主役にすると言っても無茶な話です。
ところが、考えているうちに発見することもありました。
それは、コミュニティが、実は住設によって規定されている、という考え方がありえるかもしれない、ということです。
風呂、電話、テレビ…かつて、さまざまな「住設」は地域の共有財でした。
近所にお風呂を借りにいく、電話を借りにいく、みんなで集まってTVを見る・・・。どれも、一昔前であれば日常的に見られていた風景です。
これは、住設を共有していることがコミュニティ単位の基準となる、という側面があるということです。
「住設」とは公共財であり、設置されている空間には公共性が備わっていた。
ところが、経済成長、技術進歩によって住設がどんどん住宅の中、さらには個室の中に取り込まれていく。
共有財であった住設が、私財化されていくわけです。
「住設」の私財化は設置される空間の公共性も必要としなくなっていき、それに伴って、かつてそこにあったコミュニティが変質していくと考えることができます。
このように考えると、住設というのがコミュニティの形成にとても大きく関わっているような気がしてきます。
まさに主役。
今はフラッシュアイデアの状態ですが、ここから、さらに話を膨らませていけたら面白そうです。
まだまだどうなるかわかりませんが、楽しみです。乞うご期待。

20070506

過程のプレゼン

先日、友人の藤村龍至くんが個展をやっているプリズミックギャラリーへ。
かねてから、建築家の個展において一般的な形式となっている「模型と図面を展示する」というやりかたにある種の閉塞感を感じていましたが、藤村くんの個展はその形式を踏襲しつつもなかなか面白いものでした。
彼の特徴は「とにかくたくさん検討する」というところにありますが、その検討の過程が展示されていて、しかも途中経過の模型写真に「どんなことを検討し、どう判断したか」というキャプションがついている。
スタディ過程を公衆の目に曝すというのは、化粧の途中の顔を見られるようなもの(僕は男性なのであくまで想像ですが)で、結構恥ずかしいことのようにも思います。
しかし、藤村くんの展示はとても戦略的で、あまり恥ずかしさを感じるようなものではありませんでした。上手い。
この展示は彼の思考過程をどんな文章よりもわかりやすく伝えてくれて、興味深かったのですが、おそらく彼はスタディしているときも、常にその過程を誰かにプレゼンテーションすることを意識しているのだろうと思います。
そういうやり方は、常に隠蔽出来る部分が無いと言うか、とても大変な作業なのではないかという気がしますが、それすら「かえって効率がよい」などとさらりと述べてしまうあたりに彼のしたたかさを感じます。
したたかさ、見習いたいです。

20070418

毛糸の舞台


先日やった舞台美術の写真をテストでアップしてみます。
「糸」という最小限の要素で空間を規定してみようという試みでしたが、なかなか面白いものになりました。写真だとわかりにくいですが。
「糸」といってもこのときは毛糸を使いましたが、その材料の選択は成功でした。
やろうとしていることは抽象的だったのですが、毛糸の持っている具体的なテクスチャが抽象性を和らげて、生物のような不思議な柔らかさをもった物体に仕上がったと思います。
舞台終了とともに解体されてしまったのが残念。

ブログ

伊藤暁です。
日々の生活でアンテナに引っかかってきたことを書いていこうと思います。