20091120
志村信裕展「うかべ」
友人の志村信裕くんが横浜美術館で展覧会をやっている。
先日のアーティストトークを拝聴。いろいろとネタばらしを聞かせてもらう。これがアーティストトークの醍醐味。
彼は主に映像を使う作品を作っているのだけれど、彼のドローイングにはいつも映像だけでなく、映し出される空間や鑑賞者が描かれている。ただ映像を作るのではなく「映像が投影される空間全体を作品とする」というコンセプトなのだ。
と書くと、とてもサイトスペシフィックな作品を想像してしまうけれど、実はそうでもない。彼の作品はそれ自身で自律していて、空間に依存はしていない。映像を空間にぶつけることで、今まで何気なく通り過ぎてしまっていた空間を違ったものへと変容させる。人間は情報収集の90%以上を視覚に頼っているらしいが、その視覚も、まわりに溢れる情報のほんの一部しか相手に出来ていないということがよくわかる。もちろんその性能が上がれば良いというわけではないが、志村くんの作品は、普段なら取りこぼしていた情報の断片をそっと差し出してくれる。これは、けっこうどきどきする体験なのだ。
一緒に行ったYさんは「これは恋人と見たい」などとロマンチックな感想を述べていたが、あながち悪くないのでは。
11月23日まで。毎日16時〜18時に上映。残り僅かな会期ですが、横浜方面に行かれた際は是非。
20091118
20091019
何に因って?
森美術館のアイ・ウェイ・ウェイ展へ。
なんと写真撮影OKという画期的な試みが行われていたのだが、まさかそんなことになっているとは知らなかったのでカメラを持って行かず。残念。
アイ・ウェイ・ウェイの作品をまとめて見るのは初めてだったが、とてもわかりやすい。
しかし、全ての作品に「これはこういうコンセプトですよ」という解説のキャプション付き。
これは、ちょっとおせっかいと言わざるを得ないのでは。
アートの解釈は人それぞれ自由、というよく聞く言説があるが、これがなかなか難しいのはよくわかっている。
しかし、やっぱりアートの楽しみはそこにあると思うのだ。
僕は、アートを「理解」するのをやめようと思った時から一気にアートが楽しくなった。
作品のバックグラウンドやコンテクストを説明するのならまだわかるが、「理解の方法」を押し付けるようなキャプションはやめた方が良い。
意外な収穫として、同時開催されていた小泉明郎の映像作品がなかなか良かった。
映像作家にとって、作品を最初から最後まで鑑賞させるというのはなかなか難しいこと(途中で出て行ってしまう人が多い!)だと思うのだけど、この人は作品を最後まで鑑賞させるコツを心得ているように思う。
なんと写真撮影OKという画期的な試みが行われていたのだが、まさかそんなことになっているとは知らなかったのでカメラを持って行かず。残念。
アイ・ウェイ・ウェイの作品をまとめて見るのは初めてだったが、とてもわかりやすい。
しかし、全ての作品に「これはこういうコンセプトですよ」という解説のキャプション付き。
これは、ちょっとおせっかいと言わざるを得ないのでは。
アートの解釈は人それぞれ自由、というよく聞く言説があるが、これがなかなか難しいのはよくわかっている。
しかし、やっぱりアートの楽しみはそこにあると思うのだ。
僕は、アートを「理解」するのをやめようと思った時から一気にアートが楽しくなった。
作品のバックグラウンドやコンテクストを説明するのならまだわかるが、「理解の方法」を押し付けるようなキャプションはやめた方が良い。
意外な収穫として、同時開催されていた小泉明郎の映像作品がなかなか良かった。
映像作家にとって、作品を最初から最後まで鑑賞させるというのはなかなか難しいこと(途中で出て行ってしまう人が多い!)だと思うのだけど、この人は作品を最後まで鑑賞させるコツを心得ているように思う。
20090929
青森/十和田
連休は青森へ。
青森県立美術館/青木淳。
青木淳の言っていた「意味の行き来」ということを、やっと実感をもって理解することができた。全体の構成から細部に至るまで、全てに於いて徹底されている。
目につつくところに既製品が全くない。
既製品を使わずに造作したり、通常であれば見えてくる様々な納まりの要素をできるだけ見えないように納める、というのは、比較的多くの場合に於いて検討される項目だろう。一方でそれらの納まりの手法はかなり慣習化していて、既製品を使ったり納まりの要素を露呈させたりするのと同じくらい思考停止状態の判断だとも言えなくはない。
青森県立美術館は、「意味の行き来」という青木さんの言葉一発で、ディティール操作を全て正当化しているように思う。建物全体を遠くから眺める視点から、ドアを開ける時の指先の感覚まで、全ての体験において「意味の行き来」を体感できる、そんな建物だった。
目に留まるものの意味が数秒単位で変化していく、それはまるでおとぎの国を彷徨い歩いているような感覚であり、こういう体験が建築で実現できるのか、というのはとても驚きの体験だった。
ただ、やっぱり「手摺」とか「階段」とかはいかんともし難い要素であった模様。
残念ながら、「階段」や「手摺」などに於いては青木さんも敗北してしまったようだ。
ちなみに、この日の企画展は「吉村作治の新発見!エジプト展」なるもの。県立美術館ならではのプログラム。
正直、展示室との相性はあまり良いとは言えなかったけれど、さすがにこの手の展覧会は集客能力があるようで、超満員だった。
国際芸術センター青森/安藤忠雄
開催中の「松村泰三×森田多恵展 」はなかなか面白かった。展示空間と作品の相性も良かったのに、こちらは逆に超閑散。これでは予算も取りづらいのではないか。ハコモノ行政の悪しき事例として非難される事態も容易に想像できる。しかし批判されるべきはむしろ「ハコモノ行政」ではなく、「ハコを作ったら満足してコンテンツに予算を取らない行政」なのではないか。
ちなみに、とても有能なキュレーターの服部くんがこの秋からここに赴任した。様々な制約はあると思うけれど、がんばって盛り上げてほしいと強く思う。
十和田市現代美術館/西沢立衛
建物以上に目当てだったと言っても過言ではない、栗林隆(数年前に本郷のトーキョーワンダーサイトで見てからファンなのです)の作品が堪能できてまずは満足。でも、作品としての切れ味はワンダーサイトのバージョンの方が上なのではないかという気も。栗林作品は、コミッションワークとして箱が用意されるよりも、どこかのギャラリーを舞台とした方が相性が良いように思う。
西沢さんのコンセプトに偽りはなく、とても街に開かれた建物だった。しかし、なんで日本の美術館は撮影禁止なんだろうか。これでは、せっかく建物が街に対して開いていても台無し。美術館という箱の中で額縁に入っていて、ばっちり照明があたった作品をありがたく鑑賞するなんてのはごく限られた芸術への接し方でしかない。
芸術にはもっと可能性があるということを建物が実現しようとしているのに、あの運営管理方法は無いのではないか。
ところで、今回の旅で最も興奮したのは青森から十和田に移動する際に八甲田で目にしたブナの林だった。
何度も車を止めて足を踏み入れたいと思ったのだけど、道が狭い上になぜか意外と交通量が多く、ちょうど良い駐車スペースを見つけることができなかった。悔やまれる。ぜひまた訪れなければならない。
青森県立美術館/青木淳。
青木淳の言っていた「意味の行き来」ということを、やっと実感をもって理解することができた。全体の構成から細部に至るまで、全てに於いて徹底されている。
目につつくところに既製品が全くない。
既製品を使わずに造作したり、通常であれば見えてくる様々な納まりの要素をできるだけ見えないように納める、というのは、比較的多くの場合に於いて検討される項目だろう。一方でそれらの納まりの手法はかなり慣習化していて、既製品を使ったり納まりの要素を露呈させたりするのと同じくらい思考停止状態の判断だとも言えなくはない。
青森県立美術館は、「意味の行き来」という青木さんの言葉一発で、ディティール操作を全て正当化しているように思う。建物全体を遠くから眺める視点から、ドアを開ける時の指先の感覚まで、全ての体験において「意味の行き来」を体感できる、そんな建物だった。
目に留まるものの意味が数秒単位で変化していく、それはまるでおとぎの国を彷徨い歩いているような感覚であり、こういう体験が建築で実現できるのか、というのはとても驚きの体験だった。
ただ、やっぱり「手摺」とか「階段」とかはいかんともし難い要素であった模様。
残念ながら、「階段」や「手摺」などに於いては青木さんも敗北してしまったようだ。
ちなみに、この日の企画展は「吉村作治の新発見!エジプト展」なるもの。県立美術館ならではのプログラム。
正直、展示室との相性はあまり良いとは言えなかったけれど、さすがにこの手の展覧会は集客能力があるようで、超満員だった。
国際芸術センター青森/安藤忠雄
開催中の「松村泰三×森田多恵展 」はなかなか面白かった。展示空間と作品の相性も良かったのに、こちらは逆に超閑散。これでは予算も取りづらいのではないか。ハコモノ行政の悪しき事例として非難される事態も容易に想像できる。しかし批判されるべきはむしろ「ハコモノ行政」ではなく、「ハコを作ったら満足してコンテンツに予算を取らない行政」なのではないか。
ちなみに、とても有能なキュレーターの服部くんがこの秋からここに赴任した。様々な制約はあると思うけれど、がんばって盛り上げてほしいと強く思う。
十和田市現代美術館/西沢立衛
建物以上に目当てだったと言っても過言ではない、栗林隆(数年前に本郷のトーキョーワンダーサイトで見てからファンなのです)の作品が堪能できてまずは満足。でも、作品としての切れ味はワンダーサイトのバージョンの方が上なのではないかという気も。栗林作品は、コミッションワークとして箱が用意されるよりも、どこかのギャラリーを舞台とした方が相性が良いように思う。
西沢さんのコンセプトに偽りはなく、とても街に開かれた建物だった。しかし、なんで日本の美術館は撮影禁止なんだろうか。これでは、せっかく建物が街に対して開いていても台無し。美術館という箱の中で額縁に入っていて、ばっちり照明があたった作品をありがたく鑑賞するなんてのはごく限られた芸術への接し方でしかない。
芸術にはもっと可能性があるということを建物が実現しようとしているのに、あの運営管理方法は無いのではないか。
ところで、今回の旅で最も興奮したのは青森から十和田に移動する際に八甲田で目にしたブナの林だった。
何度も車を止めて足を踏み入れたいと思ったのだけど、道が狭い上になぜか意外と交通量が多く、ちょうど良い駐車スペースを見つけることができなかった。悔やまれる。ぜひまた訪れなければならない。
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学会誌
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