20080712

フリータイム

巷で話題のチェルフィッチュという劇団があります。すごい評判で、演劇の話になると名前が出ないことはない、という勢い。いろんな賞も総ナメです。
こういうのは押さえておきたいと思うのですが、なかなかタイミングが合わず、まだ公演を見たことはありません。
と、そんな矢先、家に帰ってテレビをつけたら彼らの「フリータイム」という公演をやっていました。これはラッキー。その評判たるや、いかなるものかと。どんな面白い芝居なのかと。期待に胸を膨らませて鑑賞したのですが。

ひどくつまらなかった。というか、イライラしました。

普通ならそこでテレビを消すのですが、公演放映の後、主宰の岡田利規氏と大江健三郎氏の対談があるとのことで、ムカついたあまり、「どんなこと考えてこんな芝居作るのか聞いてやろうじゃねえか」と意気込んでしまい、それも見ることに。
その対談を聞いてみると・・・。これが非常に面白かったわけです。
「演劇」という形式に対する新しい試みがあり、「役者とは」「台詞とは」「身体とは」「舞台とは」といった問題に対する鋭い批評性が感じられます。「台詞と身体を同等に扱う」という発言など、シビレてしまいます。

しかし、その対談に興奮してもなお、チェルフィッチュの公演自体が面白いとは思えないだろうな、というのが素直な感想。
つまり、コンセプトは最高に面白いけど、その結果が魅力的ではないわけです。
これは、自分にとってもとても重大な問題です。
建築家に限らず、あらゆるクリエイションに関わる人たちは、今の自分を取り巻いている状況を疑い、固定化した形式に捕われず、新しい提案を行っていくという責務があります。その過程には様々な思考があり、コンセプトがあり、その結果として戯曲が出来たり、建物が立ったりするわけです。
一方で、新しさを求めるあまり、単に突飛なものや、奇天烈なものが登場してしまうことも無いわけではない。あるいは、コンセプトは完璧だけど形が格好悪い、という事態もママあるわけで。
結果として提示するかたちが魅力的でないと、その提案は説得力を持たないのです。
「新しさに惑わされずに、それがもたらす真の価値を見定めなければならない」と強く思いました。

余談ですが、「チェルフィッチュの芝居を撮影した写真を見る」というのが、今のところ僕にとって彼らの芝居を楽しむ一番の方法であることは、書き記しておこうと思います。

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