20081217

注文の夥しい料理店

事務所の一階にある「5TANDA SONIC」で、危口統之主宰の劇団(?)「悪魔のしるし」による公演「注文の夥しい料理店」が開催されました。
題名からわかる通り、宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」のパロディです。この童話をベースにしながら、カニバリズム的に暴走させたという問題作。
客席はS席とA席に分かれていて、S席では実際に人肉(を模した料理)を食べることが出来るという仕組み。料理は、Food Creationの諏訪さんでした。
危口氏の狂気と妄想が炸裂する、危険で魅力的な芝居。会場中に充満するおいしそうな料理の匂い(でも出されるのは人肉)…。
人食などというのは、なかなか日常的に身近にあるテーマではないので、来場者はなんだか秘密を共有するような魅惑にかられるのですが、一方で危口さんの芝居はそんな共有性を突き放すようにドライブしていきます。共有と非共有が交錯する、不思議な時間でした。

終演後、芝居関係者とおぼしきお客さんが危口さんと話しているのを聞いていたのですが、このやり取りがとても面白かった。
お客さん曰く「どういうつもりでこういう芝居をやってんですか?」
危口氏の回答「世の中にムリ、ムダ、ムラを出来るだけ増やそうと思って。」
煙に巻くような回答ですが、ここに危口氏の本質と矛盾を見たような気がします。危口氏のパフォーマンスの最大の魅力は何かというと、「状況を提示している」という一言に尽きると思っています。それは「芝居」という形式を用いているときもあるし、「講義」「搬入」「写生大会」等、様々な形に姿を変えるのですが、そこにあるのはメッセージやプロパガンダではなく、何らかの「状況」をポンと置く、ただそれだけというとてもドライな態度です。
メッセージを持たないので、そこには「機能」はありません。社会的にはなんの役にも立たない、ただの行為があるだけなのです。ゴミみたいなものです。
しかし、生きていればゴミは出る、そしてそれは確実に社会の中に存在しているということを危口さんのパフォーマンスは垣間見せてくれるのです。
ここで、危口氏はとても難しい問題に直面するはずです。芝居であれ講義であれ、「パフォーマンス」という形式を持つ以上、何か一つの形に着地させなければならない。そこに向かうというのは、クリエイションとして完成度を高めるという行為です。演じる者の最低限の責任とも言えるでしょう。
しかし、「完成度を高める」とはどういうことか。単純に考えると、それは社会的に正当性を獲得するための作業ということになります。
ムリ、ムダ、ムラという社会的に抹殺されるべきものに対して、社会的正当性を与えるというのはなんとも矛盾した、甚だ困難な作業となる。危口氏のパフォーマンスは今までいくつか見ていますが、完成度が上がれば上がるほど「危口さんっぽくない」というフラストレーションを感じていた原因が、このやりとりを聞いていてよくわかりました。

もちろん僕はこういうパフォーマンスの在り方はとても好きだし、危口氏には今後も鮮やかに活動して欲しいと思っています。
次に危口さんが見せてくれる状況とはどんなものなのか、とても楽しみ。
そしてさらに、彼がどんな「着地」の方法を発見していくのかも、とても興味のある問題になってきました。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

それを僕は祭りと解釈しているよ

匿名 さんのコメント...

丁寧な感想ありがとうございます。
完成度は上げていくつもりですが、それは社会的正当性(流通性?)を目指すのではなく、自分のモノサシで見て「ま、いっか」と諦める回数を減らしていく、ってことだと思います。周りの目うんぬんよりも、まずは自分がやりきったと思えるものを目指します。まだそういうことが無いんです。